BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
「真説 大坂の陣」の話。

前の記事でも書いていたのですが、これが稀に見る良い御本で
長々と気になるところを羅列していたら本当に長くなったので個別で分けました。
冒頭と結末だけがちょっとアレって思うところあるけれど
著者の豊臣感に共感出来る大変貴重な御本であります。

今では吉本健二さんの著作他にも読みたくなっている次第。

ツイログ。


<2/7>
「真説 大坂の陣」178頁。『長沢聞書』には秀頼が五月三日に茶臼山へ出た際に、真田かしと後藤に握々緋の武者羽織を下賜したとあるから、又兵衛は幸村とお揃いの羽織を着ていたとみた方が良さそうだ、っての萌え出ずる感情ある。
2/7 2:09[ Twitter for iPhone ]

254頁には勝永か黒い輪貫紋を織りなした艶のある厚地の絹の羽織、または黒猩々緋羽織をはおる、とあるし、実際勝家の羽織と言うのは赤いからなあ。幸村の赤備えだけでなく皆赤を身につけていたのかしら。
2/7 2:12[ Twitter for iPhone ]

真説大坂の陣 161頁、パゼー日本耶蘇教史より。「豊臣の堺焼き討ちは理由があって、堺は始め秀頼様に庇護を求めたが食糧や軍資を奪われるや今度はヤスに守兵の派遣を依頼し二股をかけた。しかも徳川兵が入り込んでいたので秀頼様が激怒し殺戮を行うように命じた。」
2/7 2:27[ Twitter for iPhone ]

150頁。「塙団右衛門がある夜旧友と酒を酌み交わした。が、最も仲が良かった男がいない。聞くと、旧友は団右衛門が夜襲の際自ら槍を振るわなかったことが気に入らなかったので会わないと。団右衛門は涙を流し次の戦いにおいては力の限り槍を振るって働き討死してみせると誓った。」←悲しい。
2/7 2:30[ Twitter for iPhone ]

淀殿と治長は幸村ageのスケープゴート代表格だけれども人質になるも厭わなかった淀殿も和平に靡いた治長も豊臣家を誰よりも守りたかったのだと思うし、主君の自害の場所すら明らかにさせず敵に首を晒させず流言飛語が飛び交う中で最期まで秀頼様に付き従った治長は間違いなく忠臣だと思う。
2/7 2:34[ Twitter for iPhone ]

それを踏まえた上で誇り高き豊臣の名の下に戦いに身を投じた秀頼様を気高く尊い方だと思うし、それが秀頼様の元に馳せ参じた浪人衆への慈悲でもあり礼でもあり、彼等の本懐も秀頼様の元でしか成し遂げられなかったことを考えると秀頼様のご判断と浪人衆の総意を卑しむことなど出来る筈もないのだ。
2/7 2:36[ Twitter for iPhone ]


<2/10>
「真説 大坂の陣」27頁。且元がヤスに刃向かえなかった理由に「片桐家秘記」を引用。常々片桐兄弟は秀頼様に「ヤスを親と思い世話を受け秀頼が成長し15歳より20歳の内天下を治める器量があったら天下を返してやってくれ…」と言う様な太閤秀吉臨終の遺言を聞かせたと。余りに後世後付で滑稽。
2/10 3:26[ Twitter for iPhone ]

大坂方から誘われる豊臣恩顧大名は気苦労が絶えなかったとか書いてあるけど藤堂が豊臣方だけでなく徳川方からもヤスに寵愛されてたから嫉妬で嫌われてたって言うの是非もなしって感じだな。
2/10 3:34[ Twitter for iPhone ]

重成の初陣の時、秀頼様が又兵衛らと共に京橋口にある菱櫓に登りこの戦いを遠望し、木村を討たすな加勢せよと叫んで又兵衛が援軍に行く流れが好き過ぎるんだ。
2/10 3:36[ Twitter for iPhone ]

ここで又兵衛が左の小指に鉄砲が掠め、秀頼様が城中より大砲を放った頃に又重が合流。重成は会釈してから又兵衛の左の小指に目をとめ手を負われましたかと問う。又兵衛はこれは我が吉例よと強がり鼻紙で傷を巻き付けた。重成はしきりに御自分の陣所に帰られよと言った。
2/10 3:40[ Twitter for iPhone ]

重成は若輩ゆえに又兵衛に取り飼われたと他人に言われることを危惧していた。元々初陣の若大将から武功を奪う気はない。又兵衛は共に戦うよう決した。そして重成の名言、喩え矢玉からは遁れても運命からは遁れがたい。 ここまでの流れが好き過ぎるんだー!!!
2/10 3:42[ Twitter for iPhone ]

戸村義国達と木村後藤隊の戦い。鴫野方面からの狙撃に又兵衛も5.6弾被弾し左腕を掠めるも、又兵衛は少しも騒がす傷口を縛り「秀頼公御運は強し!」と豪語した。これを耳にした者の中には大坂城を後藤一人か重荷にしているおつもりかと嘲る人もいたが。 ここな、大坂の陣400年のポスター;;
2/10 3:46[ Twitter for iPhone ]

重成が撤退の際、重成隊隊長、大井何右衛門を銃弾の中引き戻って連れて帰ったと言うみずみずしい美談も好き。重成のパーフェクトイケメソぷりは凄いよ 豊臣方は勿論の事徳川方からしても重成を悪く書いてあるの見たことないもんな。
2/10 3:50[ Twitter for iPhone ]

博労淵の戦い。戦術変更と大野兄弟の対立、又兵衛の読みが本当は正しかったのに後一歩のところで徳川方が仕掛けてこなかったために評判を落としたこと、そらに反して治又重盛親幸=武将達は冷静、城内の不和が間者の手によって徳川方にすぐ知られるのを逆手に取って罠を仕掛けられないかとの記述。
2/10 3:55[ Twitter for iPhone ]

長沢聞書の、難波六太夫が日本丸暴発させて治長屋敷を焼いたこと、又兵衛があの様な名将(ヤス)を鉄砲では撃たぬものよの言ったこと(これで内応が疑われるも幕府軍を城側に引きつけるにはまだ生かしておく必要があった)も紹介されてる。
2/10 4:13[ Twitter for iPhone ]

真田が兄が徳川方にいるから治長に信用されなかったと言うのはあり得ない。兄弟や親族が徳川方にいるのは大方の武将に当てはまる上に、治長にも治純がいて彼自身が弟を窓口に休みと交渉を重ねているからと。また真田丸の戦いは東西の城壁全体で戦われたものだから幸村だけを疑う道理がない。
2/10 4:16[ Twitter for iPhone ]

真田丸の戦いは実の所大坂城南惣堀全体の戦いであり、幸村だけを出丸に出して戦おうとした風説はまるで成り立たないと。うーん、この本は2005年だから少し古いけどまあ治長が幸村だけを敵視したってことはないだろうし寧ろ幸村が勇んで一人舞台に行った気もするなあ。
2/10 4:18[ Twitter for iPhone ]

真田丸の戦いから12/4~6、ずっと勝利を重ね味方には殆ど死傷者もないのに敵の包囲網は崩れない。治長が和睦を結ぼうとしたのはこの頃から。織田父子の怪しさ、坑道掘削、幸村勧誘、仏狼機砲、塙団右衛門夜襲(采か采)、城内窮乏、そして和睦。秀頼様が最後まで和睦反対だったの美談過ぎる;;
2/10 4:25[ Twitter for iPhone ]

徹底抗戦を決意していた秀頼様が民の為母の為に涙の決断として和睦を受け入れるところ痛まし過ぎる。
2/10 4:27[ Twitter for iPhone ]

講話対談。12/18の初日会談は本多正純と阿茶の局、常高院と大蔵卿局が代表。この日ヤスは最も苛烈な砲撃を大坂城に向けていた。和睦対談は炮声が轟然と響き渡る中で行われた。18日は次こそ違え故太閤の忌日。この日も秀頼様は慣習に従い山里曲輪の豊国廟に詣でた時轟音が鳴り響いた。
2/10 4:39[ Twitter for iPhone ]

秀頼様の豊国社参詣を狙って京橋口にまで陣を寄せた片桐且元が田村兵庫助景澄に命じて大仏郎機を放ったが、的が外れて本丸天守閣二重目の柱に砲丸がぶつかってしまう。翌日第二回の会談で和睦が締結される。
2/10 4:41[ Twitter for iPhone ]

ヤスの治長評。大坂籠城の張本人となって弓矢を取ったこと、武勇の儀は言うに及ばず秀頼様への忠節浅からず思われたと。そして治長の肩衣を貰い治純に着せ、治長は感涙に咽んで大坂城に帰って行ったと。(大坂御陣覚書) これを機に治長失速してサヨナラなんだよな…。
2/10 4:44[ Twitter for iPhone ]

又兵衛が浮浪者同然の体で大坂にやって来て同郷同名の商人から甲冑を借り受け大坂入城を果たした傾聴摂戦記の逸話が有名だが、少し趣の異なった説もある。ある日黒田家の追っ手が又兵衛を狙ったが既に大坂にいた為手出しが出来ず、又兵衛の幼少の息子を拐かそうとしたら領主たる秀頼様が聞いて激怒。
2/10 4:56[ Twitter for iPhone ]

大坂の近辺、奈良、堺に住む牢人は我が御家人も同然であると、黒田家の追っ手達を堺で磔にしたと言う。このことを恩に感じ大坂変事と聞くや又兵衛は馳せ参じたと。ううん?既に大坂に来つつも戦は迷ってたってこと?どの時系列の話なんだこれは…?
2/10 4:58[ Twitter for iPhone ]

更に意外な話が「三川記」にあり、又兵衛は奉公構の後大和に隠れ住み治長の恩を蒙り、その頃から治長によって囲われていたと。だから治長と決裂した又兵衛は身の処しように窮するばかりだったと。いろんな説があるなあ。
2/10 5:01[ Twitter for iPhone ]

実際のところ又兵衛が何故大坂に来たのか、大概は長政見返したいとか言う理由で片付けられがちだけど実際の深いところは又兵衛クラスタすらよく分からないとか言ってたからつまりはそう言うことなんだろう。
2/10 5:03[ Twitter for iPhone ]

長沢聞書には秀頼様が5/3に茶臼山に出た際に真田と後藤に猩々緋の武者羽織を下賜したとあるから、又兵衛は幸村とお揃いの羽織を着ていたとみた方が良さそうだと。はああーーーお揃い素敵。
2/10 5:05[ Twitter for iPhone ]

253頁、天王寺の毛利。勝永は紅いすみとり紙の馬印を掲げ、4500の将兵を率いていた。兜は頭形で銀の輪貫がついたものや角のものを持っていた。黒い輪貫紋を織りなした、艶のある厚地の絹の羽織、または黒猩々緋羽織をはおる。 最終決戦の勝永の装い最高に美しい…。
2/10 5:13[ Twitter for iPhone ]

大坂御陣覚書の秀頼様の装いも描写されていたし、治長が倒れて帰って来た説も、別解釈の「日本切支丹宗門史」より、治長が秀頼様に援護退却したのが敗走の観を呈した説も紹介されてた。全く違うよな。
2/10 5:22[ Twitter for iPhone ]

話戻るけど49頁で明石さんと切支丹のこと書いてある。「この当時の豊家は天主教伴天連と友好的に付き合っており、1614には地球儀で地球の地理の説明をされ秀頼様は満足の意を表明していたりする」って、この話初めて聞いたんだけど可愛いね??
2/10 5:25[ Twitter for iPhone ]

この本では淀殿が砲撃に耐えかねて講和したと言う印象を利用してはいるものの、幕府側の虚構の可能性も示している。長沢聞書によると砲撃の被害は殆どなく、大筒や大砲の影響に言及しているのは当代記や台徳院殿御実記など幕府側史料か戦記物が多い。淀殿は講和の条件闘争から手を引いたに過ぎない。
2/10 5:32[ Twitter for iPhone ]

最後まで治長が淀殿と秀頼様の助命嘆願をしているのに徳川方が蹴ったことに対してあれこれの説はあるけれども、結局のところよく分からない、命乞いをする主筋秀頼母子を殺したことはヤスの神格化にとって不都合が多過ぎる故の混乱、って文章超簡潔。
2/10 5:36[ Twitter for iPhone ]

終章の元和偃武では大坂の陣後の武将の末路が書かれている。国松様、全登、盛親、興秋、治房、治胤、糺、且元。そしてエピローグとして大坂の陣とは徳川主催の戦争と言う祭礼空間に全国の武士を集めさせ、豊臣の世の終焉を天下に見せつける行為だと締める。冒頭の豊臣と祭礼の記述はここの布石だった。
2/10 5:46[ Twitter for iPhone ]

大坂の陣は戦術戦略的には意味のない戦いだ。豊臣家の終焉と共に戦国時代の終結を世に示す為の儀式であった。戦国武人の生き残りとして自負するヤス自らが戦国の世の幕引きを行った。 これが吉本健二さんが一番言いたかったこと。な、なんだーーアニむそじゃなーかあああああ!!
2/10 5:48[ Twitter for iPhone ]

いやしかもこの解釈で行ったら完全にアニむそ秀頼様勝利してることになるね? 小説「戦旗」で松平忠明が「我等は秀頼公に勝てなかった」ってのと同じだ。
2/10 5:51[ Twitter for iPhone ]


「秀頼は徳川家に飼い慣らされるのを拒んだ。日本の諸大名を敵に回して堂々と戦い腹を切った。庶人の喝采を受け愛惜の念を残した。院、主上、公家衆も同じである。大坂攻めに加わった全ての大名にとって、己が手を染めた罪を忘れる日は来ないだろう。」←愛惜の念;;;;
2/10 5:52[ Twitter for iPhone ]

真説大坂の陣に戻す。エピローグの豊臣の残照として、後代に至って本当に神になったのはヤスでも秀吉様でもなく真田幸村と言う神号を得た信繁と言う。また後世に残した豊臣の光として千姫と天秀吉尼を挙げる。そして、この本最後の一文も、最高に素敵だった。
2/10 5:56[ Twitter for iPhone ]

「秀吉が一代で築きあげた豊臣家は、二代秀頼のときに幻のように消え去り、漆黒の豊臣大坂城も豊国廟も破壊されたが、豊臣家の遺光は時代に呑まれることなく特異な輝きを放ち続けたのである。」 はあああああ素敵、その通り。巻末の大坂の陣関連年表も良かった。この本素敵、読めて良かった。
2/10 5:59[ Twitter for iPhone ]

徳川は主君ある豊臣を執拗に追い詰めて何としても絶対に豊臣滅ぼしたがってたから、ヤスは秀頼様を出来れば殺したくはなかったのにどうしても言うこと聞かないから止む無く殺したんですぅみたいな考え方は吐き気レベルで宗教違う。
2/10 6:17[ Twitter for iPhone ]

吉本健二さんの御本ググったら結構ネットの古本で表紙見たことある御本の作者さんだった。あの手の小説ほとんどよまないんだけど吉本せんせーの豊臣感が真説大坂の陣と似た感じなら手に取ってみたくなった。
2/10 6:18[ Twitter for iPhone ]



諸説ある大坂の陣において、出典、逸話、その真偽は個人で解釈すべきところは
多いけれども、この御本の豊臣感と豊臣方武将の捉え方が好きでした。

これは何度も読み返したくなる。素敵な御本を有難うございました。
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