BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
「偽りの秀吉像を打ち壊す」を読みました。

先日軽く触れたこの御本、この本の紹介だけで長くなってしまうので
通常の戦国雑記と分けるべく別記事で書くことにしました。




本書は「消された秀吉の真実―徳川史観を越えて 」の執筆陣による
第二弾の御本なのだけれど、このグループの方々が描く秀吉様像が好きで
今回も本当に良い御本だったから読めて良かったわ。

ツイログ。


<4/12>
「偽りの秀吉像を打ち壊す」第一章、秀吉様が征夷大将軍になりたかったと考えるのは誤り。秀吉様の源氏改姓工作(将軍任官を望んで義昭に養子入りを依頼して断られたエピソード)は1642の林羅山の豊臣秀吉譜が初出。本当に源氏でないと将軍になれないならそもそも将軍推任の時に問題になる筈。
4/12 0:32[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

天正十年の信長の三職推任でも朝廷が信長が平姓であることを問題視した形跡なし。当時本姓が源氏であることは将軍任官の条件ではなかった。では林羅山は何故この様な捏造をしたか。それはヤスが「将軍望に付て」源氏改姓をしたから、羅山は源氏を将軍任官の条件にするしかなかた。
4/12 0:36[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

源平交替説を提唱したのは戦前の田中義成、本格的に検討したのが川合康氏。川合氏によると北条は身分の低く平氏とはみなされていなかったこと、源平交替を唱えて源氏打倒、平氏打倒と軍事行動を起こした人がいないことに言及。平家物語、太平記、日本外史の間に林羅山の本姓源氏の強調が媒介されたと。
4/12 0:42[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

結果、ヤスも他の権力者も自らの地位の正当性を主張し確率するために様々な工作を行い結果として征夷大将軍に任官したが、その理由は夫々異なっている。彼らはその時に最も有効な政治手法を取っただけで、将軍=源氏説が伝統的な「真理」に基づく必然であるとするのは徳川史観でしかない。
4/12 0:45[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

第二章 消えた前田玄以。中御門宣光記を題材にしった玄以と朝廷の関係。公家たちにとっては秀吉様が内大臣や関白であると言う外形的地位よりも自らの利害に影響するか否かの方が重要だったと思われる。文化的活動をしていた玄以は京都の公家、諸寺社との繋がりを持つ数少ない人物だった。
4/12 0:48[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

そのため京都所司代に玄以が起用されたとも推測される。
4/12 0:49[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

第三章 長丸(秀忠)の上洛について。天正17年9月秀吉様が諸大名に出した上洛令は翌年の小田原攻めに向けて人質を徴収することが目的だったと思われる。ヤスはこの上洛令に対し9/17時点で近い内に長丸上洛を約束している。これは徳川から豊臣への軍事的協力を意味する。
4/12 0:53[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

12月に話し合いを行い長丸上洛が確定。徳川は北条豊臣と婚姻関係を結んでいたが、長丸上洛によって豊臣につくことを明示した。逆説的に考えると長丸上洛がなければ北条に近い徳川の協力が得られず、北条氏への総攻撃も行い得なかったと言える。
4/12 0:55[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

第四章 豊臣政権と南部家。豊臣の地方統治について。南部家の場合は九戸一揆で見せつけられた強大な軍事力を有する豊臣政権を後ろ盾にして検地実施、領主財政確立、家臣抱城の破却、城下集住と言う、秀吉様朱印状で示された仕置方針を強制的に領内で展開することが可能になった。
4/12 0:59[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

近世大名としての南部家は秀吉様を頂点とした秩序維持の機関として、秀吉様の強制によって「創設」されたものだった。統一政権と大名の関係性を検討する際は、統一権力側の挑戦と地域権力の対応を強調するだけでなく、中央と地方相互の交流の中で政策修正を行った部分も見出だすことが可能となる。
4/12 1:02[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

第五章 秀吉と天皇。秀吉様は天皇の意思を尊重する姿勢を見せたことはあるがそれに拘束されてはいなかった。また、勅諚や叡慮でもってまだ服属していない戦国大名に停戦を呼びかけたことはあったがそれに従わなければ軍事力を用いて服属させたり滅亡させたりしている。
4/12 1:06[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

豊臣政権の基盤は圧倒的軍事力とその実績を有する秀吉様個人のカリスマ性だったと言える。にも拘わらず後陽成天皇の宸翰に関しては天皇の意思や権威を過大評価する論調が主流になっている。秀吉様が伝統的な天皇を上位に置いたのはそれが「豊臣王権」において意味があったから。
4/12 1:10[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

天皇機関説、国制の概念を用いながら、秀吉様が旧王朝を滅ぼす(王殺し)をすることなしに自己の王朝を築くことが出来たと説明。父正親町天皇を失ったばかりの二十歳そこそこの後陽成天皇は、心理的には秀吉様に依存していたと。こんな考え方もあるのねえ、テーマも展開も面白かった。
4/12 1:14[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

第六章 文禄役講和の裏側。講和と言うとその時点で可能なものを入手することで、目的を達成するための一過程に過ぎない。文禄三年末、明の皇帝は秀吉様を日本国王に封じることを決定したが貿易は許可しなかった。行長は明の軍人:譚宗仁から日本が冊封関係を取れば良いと言われたと言う。
4/12 1:17[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

有馬・松浦氏の軍士は、秀吉様は土地が欲しいのではなく名前を残したいと言ったと言う。中野等氏の研究によれば、秀吉様は国内統一と同様、戦闘に参加した諸大名を朝鮮に分配することなく、原則的には朝鮮国王と王子に支配を続けさせようとさせる構想だった。
4/12 1:20[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

明を中心とする東アジア国際秩序と無関係に存在していた日本が「一家」の一員として迎えられることがあれば、それは「中国的世界秩序を後ろ盾にした政権」になると。明は秀吉様を国王に封じる際、諸大名にも日本国王幕下としてそれなりの地位や衣冠を与えた。
4/12 1:24[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

行長は豊臣配下の顔ぶれなど知らない明朝廷に対して、誰にどの位を与えて欲しいと言う名簿を提出した。内藤如安が届けたその請願書は「関白豊臣秀吉を日本国王、妻豊臣氏を妃、嫡子を神童世子、養子秀政(秀次)を都督としすなわち関白とする」ことを求めている。
4/12 1:27[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

行長は国王に次ぐ大都督に三成長盛や自分自身らを希望した。行長は今後も明と交渉する以上、位が低い訳にはいかなかったのだろう。この文書が作成されたのは文禄2年~3年初頭と推測される。関白秀次が健在な頃から、行長は秀吉様の後継者を嫡子秀頼様、甥の秀次を奉行衆より格下の都督に位置付けた。
4/12 1:30[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

国内で天皇を輔弼する関白は秀次で構わないが、国際社会で通用する日本国王は秀頼様が継承すると言う提案は秀吉様にとって明の諸侯に成り下がるマイナスを上回る永続政権の魅力として映ったのかもしれない。
4/12 1:32[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

第七章 秀吉様による伏見大坂体制の構築。馬廻衆の伏見大坂在住については真野蔵人(助宗)宛書状(大坂七手組の人ね)、薄田兼相宛の書状を紹介。「来年三月までの間、各自の妻子を伏見に移住するよう厳しく命じたので早々に移住しなさい」との内容。文禄三年の頃か。
4/12 1:39[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

来年三月には秀吉様自身も渡海予定、と書いてある書状は先日竜野市の展示でも見たな。また、大坂で秀吉様が各大名の家を戸別訪問する「御成」について。これは大変名誉なことであった。文禄5年4月27日、秀吉様は長宗我部氏の邸宅に御成をした。(「孝亮記」)
4/12 1:42[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

秀吉様は御成を大切な国家行事と位置づけ各家との結びつきを強めた。秀吉様の死後、ヤスは伏見城で秀吉様の政治を踏襲するかたちで政務を執ったが、新たな政治体制を樹立するものではなく、また場所も伏見での公務の権限で、秀頼様のおはす大坂の地は把握出来なかった。
4/12 1:46[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

ヤスは政権の基盤を東国に置く準備をしつつも、次第に湾岸都市機能の高まる大坂を掌握しなければ到底西国を支配することが出来ないことを実感するようになる。二条城建設で天皇勢力を削った後も大坂を掌握することは出来なかった。日本列島全域の支配は豊臣氏の滅亡が必要だった。
4/12 1:48[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

第八章 大坂の陣をめぐる豊臣家と徳川家。徳川義直宛秀頼様の書状を紹介。現存する内でも秀頼様の花押のある珍しい書状。(多くは黒印状)花押の存在と、書止文言が~候也ではなく恐惶謹言となっていることから比較的厚礼の書式と言える。家臣の赤座内膳正を使者に立て婚礼の祝いをし、
4/12 1:52[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

名刀の則重、左文字の脇差、呉服五重を贈ったことを記す。ヤスの九男義直と浅野行長の次女春姫の婚礼。豊臣と徳川の最後の戦いを目前に控えた1615/4/12、こんな時期でも秀頼様は徳川家に対して丁重に礼節を尽くしていたことが確認出来る。ヤスはこの時義直に婚礼が済み次第の出陣を命令。
4/12 1:56[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

浅野家は元々豊臣と縁の深い家ではあった。関ケ原の後、ヤスは諸大名に対して秀頼様に年賀の礼を取る様に命じ自身も大坂に下って臣下の礼を取っていたが、慶長8年に征夷大将軍に任ぜられると秀頼様への御礼を行わなくなり諸大名の御礼もヤスのみになり秀頼様への年頭御礼は徐々に姿を消していった。
4/12 2:01[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

この時幸長は秀頼様への年頭御礼を行ってから清州に赴きヤスに拝謁している。二条城会見後、4/2ヤスは会見の答礼として義直と頼宣を大坂城に遣わせた。秀頼様は二人をねぎらう為に饗応を催し、翌日義直に貞宗の刀、一腰・吉光の脇差、小袖、羽織の他、鼓を好んでいたことを知り苅田蒔絵小鼓を贈った
4/12 2:08[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

慶長16年御水尾天皇即位の際、ヤスが上洛していた諸大名に三箇条の誓詞(秀忠の法度を守る、上意を違えない、反逆人を召し抱えない)を誓約させた。この誓詞に秀頼様は署名していない。徳川一門でも福井の松平忠直以外は署名していない。これはヤスが豊臣を徳川一門に並ぶ親族の一つとして
4/12 2:12[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

扱った特別の配慮だったのか、始めから徳川将軍体制下から豊臣家を排除する意思の表れだったのか。徳川は最終的に大坂の陣によって豊臣家を討伐したが、軍事行動に至るまでんは婚姻政策など段階的な戦略が不可欠であった。
4/12 2:15[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

第九章 毛利輝元と大坂の陣。この章の冒頭、島津家久へ出した秀頼様の書状は胸苦窒息。これは後に家久が自身の潔白を証明するべく徳川に提出したため原本は失われているが写しが薩摩旧記雑録に収録され現代に伝わっている。二通に渡る長文で「ヤスからの要求は到底承服出来るものではなく、ヤスとの
4/12 2:20[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

間柄はもはやこれまでです。こうなっては家久だけが心から頼みであるので早々に上洛しなさい」と切々と訴えている(薩摩旧記雑録1171・1172号)おの秀頼様書状には大野治長副状が存在し「秀頼様御自筆ニ而御座候」と文言がある。(薩摩旧記雑録1173号)島津家文書中には秀頼様からの書状は
4/12 2:22[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

複数存在しているが、いずれも右筆の手によるものでその内容も歳暮端午八朔等、節季関連の簡単な挨拶状ばかりだった。秀頼様が自筆でかつこれほどの長文を書くのはこれは初めてのことだった。このことから秀頼様がどれ程島津家の参戦を心待ちにしていたかが知れる。
4/12 2:24[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

それに反して家久返書は太閤様への御奉公は関ケ原の戦いで最早終えましたって奴。(薩摩旧記雑録1181号)秀頼様方では全国の大名に同様の説得を試みたが召募に応じるものはいなかった、と言うところで佐野道可の話に入る。輝元の行動の真意を秀頼様への同情と見るか豊臣側が勝利した際の
4/12 2:27[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

狡猾な駆け引きと見るかは論者により違いがあるが、そもそも佐野道可の派兵は事実だったのか。露呈したらお家取り潰しもあり得る危険な駆けを本当に輝元は画策したのか。辻達也氏はそんなテルがそんな甘い判をする訳はないとし、論拠となっている史料がいずれも家譜類等の編纂史料であることに着目し、
4/12 2:30[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

後世に事件が大幅に脚色された可能性を指摘した。本書ではその論拠となる史料2点について再検討。一つはテルが大坂の陣直前に道可に与えたとさせる起請文(萩藩閥閲録 巻28、内藤孫右衛門文書)。これは原本存在せず。①道可の大坂入城に対する見返りの順序、②子々孫々の十分な生活と安全の保障、
4/12 2:33[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

③大坂の戦場では一切の連絡を取り交わさないこと、を誓約。これは原本は存在せず、道可から五代目の内藤元貞が1720頃に毛利家に提出した写し。彼は原本は父の代に情報漏えいが怖いので燃やしたと言うが、大坂の陣から時が経った時点で情報漏えいを防ぐために燃やしたと言うのは不自然。
4/12 2:36[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

また内藤家は道可の件を問われ一度断絶するも、隆昌(元貞の父)の代に先祖忠義が認められ再興が許されている。この隆昌が内藤家存立の一助となるような「先祖忠義」の起請文を創作したのだろう。当該起請文には臣下である筈の道可に「被罷上」の様な敬語が使用されるなど不審な点が目に付く。
4/12 2:40[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

そしてテルと道可の関係は御家の一大事を託すほど本当に密接だったのか。史料②は元和元年7/20付 内藤孫兵衛・粟屋図書書状案文。山口県文書館所蔵、毛利家文庫5家臣39。本文書は佐野道可一件に含まれる一通の案文。差出は内藤元珍と粟屋元豊で二人は佐野道可の実子。
4/12 2:43[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

1615/5/21に道可が切腹した後、父の大坂籠城への関与が疑われた両名は上洛し直接ヤスの取り調べを受けた(「御召上」)。二人は自分達と父の籠城は無関係であることを上申。①道可はテルから領内追放されており親子の不和は家中では周知の事柄。②道可追放の経緯。不行跡が募り追放された。
4/12 2:47[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

確かに天正17年7/19付でテルと道可の史料上の関係は途絶えている。1591の惣国検地の毛利家八箇国御時代分限帳にも道可の名はない。道可の不行跡とは、妻を疎み、養父隆春に不義理を働き、家中の罪なき者を斬り殺すと書いてある。この真偽は疑わしいが、隆春と何が原因で揉めていたのかは謎。
4/12 2:51[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

道可は隆春に実子が生まれた場合家督をすぐに譲らなければならなかったことが原因か。上申書では、自分達は道可と親子だが、面目を失わせて道可を追放させた母と同居しているので親子不和であると説明。③とにかく自分達は道可と無関係なのでこの件を誰に尋ねて貰っても構わないとする。
4/12 2:54[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

佐野道可一件は道可の妻子処遇を巡って幕府との間で交わされた六通の書状を張り繋いで一紙に纏めた史料。いかなる契機で纏められたかは不明だが、内藤家の再興時に毛利家側がお家断絶の経緯を調べるために纏めたのだろうか。
4/12 2:56[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

もう一つの史料、福原広俊が吉川広家に当てた二通の密書。吉川家譜十七。全文カタカナの得意な文章。下から上に読む密書は他に類を見ない。原文は切紙だったと思われる。大まかな内容は4つ。①広俊から広家に毛利家中取り纏めのため下向を要請。②毛利秀元が悪知恵を働かせて秀頼様へ軍事支援した。
4/12 3:02[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

③秀元の企みが一部重臣に露見し毛利家中が動揺している。④一部の者はもしもの時には秀元を討ち果たす覚悟である。この密書の真偽について関連文書に当たってみる。慶長20年4/18、今田経忠他六名宛吉川広家自筆覚書。広家が臣下に当てた指示書。
4/12 3:06[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

①手紙を受け取らずにそのまま相手側に返すか、ヤスに提出するかは祖式長好に伝える。②秀頼親子や治長親子が去年に続いて今年も私に何か手紙を送って来るかもしれないので注意しろ。私は一文字も返信を出していないしその他連絡も取っていない。
4/12 3:09[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

帰国したら起請文を書いて皆の前で誓う心算だ。去年でさえ一切連絡していないのに今年大坂城を破却した後でどうして態々弱り目の豊臣方と内通するのだろうか。大坂の糸賀真作は、広家がテルに対し豊臣に味方する様に促し、もし豊臣が勝利すればテルの名声と自分の名誉に繋がると触れ回っていると言う。
4/12 3:12[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

広家は糸賀に対して怒り心頭で国許に戻って来ようとしても押しとどめる様繰り返し厳命。広家への誹謗中傷は毛利家中にもいて、別の書状では南宮拵のことについて大坂衆が内々に私の悪口を言っていると書いている(吉川家文書709)。広家は、大坂方の城兵からは関ヶ原の裏切りをなじられていた。
4/12 3:15[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

戦場の挑発は悪口雑言を広めて敵勢の士気を下げる心理作戦の一つであった。以上の様に、豊臣との内通に関して当時噂の渦中にいたのは秀元ではなく広家で、秀元が豊臣と内通していると言うのは吉川家譜の密書以外にも見当たらない。しかし問題の密書は秀元を糾弾するばかりで広家の周辺事情には触れず。
4/12 3:17[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

密書が秀元を糾弾しているのは広家と秀元が政敵だったため。古くは1598の秀元の所領配分問題から派生し、テルの和解、その後秀元が次期党首秀就の高見により権勢を増す中で、広家は再び主導権を取り戻そうとしていた。この様な苦境に立たされていた広家について後世吉川家の人間は、その正当性と
4/12 3:21[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

優位さをどうにか主張すべく、史実に改編や脚色を加えながら吉川家譜を編纂し秀元を佐野道可一件の首謀者と創作したのではないか。
4/12 3:22[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

最後に、テルはどの様な心境で大坂の陣に臨んだのか。1613/12、険悪な広俊と秀元の両名に、テルは21か条の訓戒状を与えている(毛利家文書1157号)その第一条「ただただヤスと秀忠らが信頼している大名衆達が手本なので彼等に倣うように」。武力活路よりも徳川に気に入られることを奨励。
4/12 3:25[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

だからこそ家中間対立などしている場合ではないと。慶長14年にもテルは「一度徳川につくと決めたのだから一致団結せよ、秀元と広家の間柄はしっているが初陣の秀就を補佐しなければならない、広俊と秀元も険悪だが三人とも協力してくれ」と書いている。(毛利家文書1160)
4/12 3:28[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

そこには秀頼様に対する同情も天下の野心もなく、徳川家への追従こそが毛利家の存続にとって第一で、そのために一家団結して欲しいと言うのが素直な心情だったと思われる。
4/12 3:29[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

どの章も面白くて、クソ長文になったので、これ最初からブログに書けば良かったなって途中から後悔したけど後の祭りだったぜ!文字制限もあるのに何故ツイに投げたし!でも書き切ったから今日はこれで切り上げます。次の本のはまた明日…後日。
4/12 3:31[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]

三時間かかってるじゃねーか!寝る!
4/12 3:32[ モバツイ / www.movatwi.jp . ]





大坂の陣関連本読み過ぎてどの本にどんな内容が書いてあったのかを
いつもメモっているんですけど、この御本どれも着眼点が良くて他の御本では
こう言う描き方しないなあと感心しながら読んでいたらあの時間になってた。

途中で、これツイでなく最初からブログに書くべきだったと言う痛恨のミスに
気付いたけれども途中からってのも嫌なので態々ツイに投げてたやつだ。
今後は全編通して面白い御本は絶対最初からブログに書くことにします。


第一弾の時の記事これだけど、当時のがスッキリしてるな。
もう一回読み直そうかしら。
そしてこのシリーズで第三弾以降も出版リクエストしたいところです。
関連記事

コメントの投稿

 管理者にだけ表示を許可する
Copyright © BAD END. all rights reserved.