BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
「豊臣秀吉と大坂城 (人をあるく) 」読みました。

「豊臣秀吉と大坂城 (人をあるく) 」読みました。

跡部信さんは3月末の豊臣石垣プロジェクト主催のウォーキングツアーで
ガイドをして下さすった跡部主任のことです。
この御本、以前も読んだことあったのに感想書いていなかったからこの度再読。
大阪城がもっと好きになる一冊。


冒頭で、秀吉様を酷評しているルイス・フロイス「日本史」と
スペインの旅行家アビラ・ヒロンの「日本王国記」を比較することで
全く異なる秀吉様像を紹介して見せる。

「統治を始めるとすぐに、あらゆることがらをそれに付随した最善のやり方で改革を行った。
それと言うのも、彼は偉大なる政治家だったからである。
あらゆる王者の心をその手の中に持ち給う我らの主(神)が、かつてもっとも惨めな薪運びであった
この人物に、実に素晴らしい極致ともいうべき、気高く、誠実で、勇気に充ちた精神を授け給うたのである。
だから今日でも日本人たちは、神が日本に遣わし給うた、一個の奇跡であり、
未だ見たことのない驚異だったと言っている。
彼は勇気に溢れ、努力家だったばかりでなく、すばらしい天才と智略の人物だったから、
彼の言動に、誰一人これに避難を加えたのも、これに欠点を発見した者もなかった。
中には彼を残忍だったとするものもあったが、しかし決して残忍ではなく、むしろ公正な人物であった。
彼は厳しい法律を制定して、無謀な日本人を矯正し、ふるえ上がらせようとした。
それというのも、彼は極めて戦闘的ではあったが、平和と徳義を愛していたからっであって、
なにびとに対しても害を加えることは欲しなかった。」

ヒロンは二十六聖人処刑も秀次事件も見聞きした上で、
この文章を書いているそうだから本気で絶賛していたのだろう。


本文は、秀吉様の人物像と大阪城について。

秀吉様を「下賤」出身とする考え方は悪意に読み取られることも多いけれども、
安国寺恵瓊は秀吉様の「乞食体験」を、あなどりがたい資質を育んだ人物として、
「小者(草履取りなど)をも、また乞食をも体験して、そうしたこともよく知っておられる人物なので
口先でごまかそうといても通用しません。いまのところ、日本をてのひらでまわしている名人です」と
肯定的に評価している。

天下統一に関しては、あれほど秀吉様の人間性を酷評したフロイスですら彼の偉業は否定出来なかった。
(十六・七世紀イエズス会日本報告集)

「いつも確実なことと認められているように、日本国の諸々の古い歴史に照らし合われてみる限り、
この(太閤の)専制主の下で一同が経験しているほど全体的な平和が栄えたこともなければ、
かうも平穏が存在したことも決してなかった。」
「かくも短時日に国家が平和と平穏を享受しているとすれば、このようなことは大いに称賛に値するであろう。」
フロイスはその後も、盗賊や海賊が消滅し、社会に平和と治安をもたらしたことを述べている。

またヒロンの「日本王国記」。
「太閤様がこの王国を平定し征服なすって以来、過去の全ての時代にまして、
人々はおしゃれに浮身をやつして来たので、現在ではチナやマニラから渡来する
すべての生糸をもってしても、彼等には十分でない…。」

小田原落城の報を得た興福寺の多門院英俊は、
「日本国六十余州、島々まで一円(秀吉の)ご存分に帰しおわんぬ。
不思議、不思議のことなり。」

惣無事によって、あらゆる騒乱、謀反、戦争、衝突を禁じ、
それを破った者は双方死刑、仮に遁走したら代わりに親族が処罰を受け、
親族はいなければその奴僕が処罰、奴僕がいなければ近隣の者が処罰を受けた。
多数が有罪であれば多くの者が虐殺されたり磔刑にされた。
決して平和的ではなく、圧倒的な軍事力を見せ、秀吉様の押し付けて来る平和は重苦しくもあった。
ただ、秀吉様の私信、「以後は無法のなきようにいたし、五十年も国々の鎮まるように」(前田家所蔵文書)や、
小田原からおねに宛てた手紙、「天下おだやかに」(高台寺文書)に見られる決意は、
秀吉様が公言していた目標から一貫している。

降伏して来た敵対者への温情(島津や政宗と対した際の話)も好き。

朝鮮出兵に関しては解釈別れるよなあ。
朝鮮王子の来日のみを朝鮮南半分の割譲にくくりつけ二者択一を迫るかたちで要求したが、
漢城陥落後に清正が捕えた王子を和議交渉の開始時に返還したのは
秀吉様にしてみれば朝鮮帰服のしるしに来日させるためで、
敵対者への例の寛大さを発揮するためにも王子を引見したかったと。

明の勅使が秀吉様に朝鮮半島からの撤兵を要求するや
朝鮮への憤懣を爆発させ和議を決裂させたのは、
領土要求は王子来日を実現させるための脅迫文言の様なものだったが
それをこけおどしとみて、彼の武威を軽んずるが如き勅使のふるまいに自尊心が傷ついたのだろうと。
ただ、慶長の役は、脅し文句だった領土要求に今更秀吉様が執着していた筈はなく、
大陸進行の動機を「名を残す」面子の為のみと考えるのは行き過ぎかなと言う気もする。


秀吉様の宗教観について。
大政所の病気平癒、鶴松様病気平癒、秀長病気平癒、豪姫の狐憑き、
秀吉様が神に祈ったり神を脅迫した文書は今日でも残っているけれど、
秀吉様の宗教観はいかなるものだったのか。
秀吉様は信心深くはなかったが、神仏の存在を確信しており、
報酬を約束したり、前払いして怒りをなだめたり、
(秀長病気の際は、多武峯寺=談山神社に、病気が治ったら同寺の祭神である
中臣鎌足神像をかつての故地に戻すと言う約束をして、
実際は病気の改善の前に神像を故地に戻している。
それは秀長の病因を大和郡山移転に憤る神霊の祟りと診断しての措置だった。
結局秀長は翌年正月に没してしまう。)
狐狩りの決意を示すために犬狩りで威嚇してみたり、神仏の存在を前提として
真剣な駆け引きを演じ、神仏を交渉相手としてごく身近に感じていた。
方広寺大仏が地震で倒壊した際、自分自身すら守れないのかと憤慨したのも有名。
「神は人の敬によって威を増す」(御成敗式目)と信じた中世人の観念を突き止めれば
人が神威を思いのままに出来ると言う結論は順当とも言える。

秀吉様自身が神となって崇敬されることは関白時代からの夢だったとおぼしい。
秀吉様が没する10年前の報告書でイエズス会のコエリュは
「この男の意図するところは他社より崇敬をうけること、日本にあって最も主要なる神の
一人としてみなされること、これに尽きる」(「イエズス会」)と観測している。
死の翌年、念願かなって彼は後陽成天皇から神号を承り豊国大明神となった。



豊臣大坂城の光芒について。
フロイスは「建築の規模と壮麗さにおいて安土の城を凌駕するものにする」と言う
秀吉様の意気込みに触れた上で、何度も安土と大坂の城を比較し、
御殿、塔、座敷、庭、その他全てが安土で見られた信長の建造物を数倍上回る、
と言った人々の声を収録した。
京都には聚楽第、伏見城、京都新城(禁裏御所の東南に建てた新邸。
聚楽第の主郭と同規模の城郭様式の御殿。
後水尾天皇以降、度々退位後の天皇の居城とされた仙洞御所の位置にあった。)が
存在したが、その状況で大坂城はどの様な位置づけだったのか。

聚楽第を本拠としていた関白秀吉様も、、天正十七年には大坂城に十回ほど、各々十日前後滞在した。
秀吉様は大坂城を例えば特別の迎賓館として利用した。(天正十六年の輝元上洛日記等)
文禄二年八月生まれの秀頼様にとっては大坂城が生誕の地であり、
翌年十一月に伏見城に移るまでの居城だった。
慶長元年閏七月の大地震後、十一月に二年ぶりに大坂城に戻って来た時には
秀吉様が「秀頼様に城を明け渡す目的」(「日本王国記」)の入城と一般に受け止められた。
秀頼様を迎え入れるため数日前に先乗りしていた秀吉様は
「夜々に西ノ丸にてご遊覧」「毎日御本丸へ出御」(「長居文書」)と言った生活で、
城主秀頼様の住居となるべき本丸には寝泊まりしなかった。
秀頼様派は翌年五月また伏見城へ移されるのだが、そのように居城が変わる度
大名や公家たちは挨拶に出向く。
移徙(いし)と呼ばれた引っ越しを、秀吉様は後継者の存在感を高めるための
パフォーマンスに利用していたふしがある。

築城開始後間もなく「堺(日本全土の市)で見つけることができない物でも
大坂では簡単に見つかる」と言われるまでに大坂城下が発展したのは
秀吉様が「大坂には全ての物品が運び込まれるよう配慮」(「イエズス会」)したからだった。
秀次に関白職を譲る際には京都と大阪及び大和郡山で地子(土地の税金)を免除。
反面、慶長二年には京都伏見堺で20%の消費税を導入して財源を賄った。
直轄都市の経済は政権の財政と直結していた。
秀吉様の死後も大坂には大名たちの蔵元が維持され、莫大な年貢米が換金された。
慶長十四年に来日したスペイン人ドン・ロドリゴが江戸駿府伏見京都堺を訪問した上で
「日本中最も立派なる所」と評するほど、大坂の賑わいは突出していた。(「日本見聞録」)
「大坂の形勢は伏見に比べてより勝れている」(「看羊録」)からこそ、
秀吉様は秀頼様を大坂城へ移そうとした。

秀吉様の威光と手練手管で維持されてきた平和が彼の死を機に崩壊する危険は容易に予見出来た。
「国の統治者が亡くなると戦乱が勃発するのが常であったから、これを未然に防ごうとして
太閤様は(日本中で)もっとも堅固な大坂城に新たに城壁を巡らし」(「イエズス会」)、
「この城は日本の最も堅固なるもの」(「リチャード・コックス書簡」)と言う評価は
大坂冬の陣開戦時まで揺るがず、その評判自体が秀頼様を保護する防壁となった。

一方、伏見城は嫌この城として認識され、最強の大坂城を最愛の秀頼様の居城としつつも、
伝統的権威を纏う首都の政庁も確保しておくのが秀吉様最期の構想だった。
秀頼様が無事に成人して天下人になった暁には、彼がそうした様に
伏見と大坂の城を併用することが想定されていた。
ところが早くも大坂の陣の頃には、大坂こそが豊臣政権の首都だったと言う誤解が生まれる。(「イエズス会」)
大坂落城時に焼亡する市街の様を懐古したイエズス会のレポートでは
秀吉様にとっての京都の重みが完全に書き落とされているが、
この報告書は秀頼様の避難所にしては度を越した大坂の繁栄と言う実相をよく伝えている。


大坂城を巡る人物、事件については秀次の説明も詳しいけれども、朝鮮冊封使のところも気になる。
秀頼様は朝鮮冊封使を迎えるために大坂城を豪華に飾りもてなした。
慶長の大地震で、当初拵えた豪華な千畳敷御殿も月見櫓も倒壊したため、
会場となる建造物は突貫工事で拵えた。
秀吉様は自分を「日本国王」に任命する明国皇帝の冊封文を礼儀正しく受け取り、
「日本国王」の金印は頭上に頂戴して拝受し、共に授与された冠服もその場で着用した。
秀吉様は、朝鮮からの完全撤兵を求める書簡に激怒したのであって、
冊封そのものを否定した訳ではないことは明白なのに、
講和破断の原因を、冊封使節の書簡と皇帝の冊封文が混同されていることが定説化されているきらいがある。


豊臣大坂城の痕跡探訪、のところでは先日の豊臣石垣プロジェクトで聞いた説明も
ちゃんと載っていた。「謎の石垣」発掘地点の写真、見つかった経緯、
金明水井戸(中で金魚が生きていた話もあり)、調査中の詰ノ丸石垣、
極楽橋と竹生島宝厳寺唐門、等。

面白いのは京橋口馬出し曲輪の中には江原余右衛門の屋敷があったが、
「慶長年間古図」と同種の絵図いよるとこの曲輪の内部に「サウノ丸」「惣ノ丸」などと
注記されることが多いこと。意味は不明だが、これを「象ノ丸」と書いた図もある。
想起されるのは、大坂城で飼育されていた象のことである。
千姫輿入れの際、公家の西洞院時慶が秀頼様に年頭の挨拶を述べるため来坂し、
豹と象を見物している。ヤスがコーチ(ベトナム北部)から贈られたものを
秀頼様に進呈したらしい。
徳川から送りこまれた江原余右衛門と、贈られた象が同居する。
徳川臭漂う空間が京橋口馬出し曲輪だったのかもしれない。



タイトル通りになるけれども、全編に渡って秀吉様と大坂城のことがいっぱいで
内容も充実している大変面白い本でした。
後半の豊臣時代の大坂城の解説を読みながら今の大阪城を歩くのも楽しいかと。
豊臣石垣プロジェクトは絶賛募金募集中なので是非ご協力の程お願い致します。
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