BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
大坂の陣の最中に大坂の陣の本を読む。
一年中大坂の陣起こしてるけど特に今の時期は心が落ち着かないものです。
最近読んだ本。


①「石田三成の青春」
3/26に滋賀の三成フェスでいっぱい宣伝されていたやつ、やっと読みました。
想像以上にラノベだった。



②「真田丸 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)」
今月下旬に後編が出るのに考えたら前編の感想書いていなかったことに今更気付いたので書いておきます。
後編のリンク貼ってるのは折角なので宣伝です。
本編のシナリオは14話までの収録だったのだけれども、
今から思うとまんま青春編までのお話だったんだな。



③「戦国武将と高野山奥之院」
先日の奥の院散策で大層役立った一冊。
読み物としても面白いけれどガイドブックとしてそれ以上に役立ちます。
作者の方が数多のお墓に付いているとてつもない量の苔を丁寧に落として
今それなりに墓碑銘が読める様になっているのだと思うとその点においても感謝するしかない。



④ 「「豊臣大名」真田一族」
豊臣武将好きな自分にとってはこんな惹かれるタイトル読むしかないじゃない。
黒田基樹先生は大河監修をされているだけあって内容はしっかりして
非常に安心して読める御本でした。



⑤「大坂落城異聞――正史と稗史の狭間から」
今回一番面白かったのはこれです!
稗史にはそれが成り立つべき土壌があり、それを求めた人間がいて
この世に生まれまた生き続けていたことが様々な例を挙げて語られていた。

「大坂城の男たち」が好きな人はこの御本もきっと気に入ると思います。
厭蝕太平楽記は今こそ映像化でもして欲しい。


ツイログ。


<5/3>
謳い文句や表紙から予想はしてたけど予想以上に少女漫画的だった…一行ごとに改行してるせいもあるのかも知れないけど内容的にも薄い本かと思った(ダブルミーニング 石田三成の青春 サンライズ出版

5/3 22:57[ Mobile Web ]

昔ありとあらゆる半兵衛さんの小説読みまくってたけど久しぶりに半兵衛さんが出て来る時系列読んだな…。当時は命助かって良かったな程度にしか思ってなかった松寿丸に対しては、今ではこの前まで子供のように思っていたのにさても歴戦の武将のようだって思う側の人間になってるから。
5/3 23:06[ Twitter for iPhone ]

大坂の陣が歴史的にも物語的にも戦国クライマックスとして完成されているので大坂の陣を扱えば最後綺麗に纏まるのは謂わば当然なんだけど、それでも後味の良い悪いは全く違うから読後に清涼感を感じる御本が読みたいすな。
5/3 23:16[ Twitter for iPhone ]


<5/5>
5/20発売の後編楽しみだなあ。9月発売の完結編に至っては泣きながら変なテンションで読んでる予感しかしない。 NHK大河ドラマ・ストーリー 真田丸 後編 | NHK出版

5/5 2:08[ Mobile Web ]

三成吉継清正の豊臣家臣団グラビア座談があるぽいけど、これ前編ではとり薫松のポジションだったから彼等が大坂編におけるヒロイン担当だと証明されてしまったな…正則涙拭いて。
5/5 2:10[ Twitter for iPhone ]

大河のこのシリーズは流石公式で毎回インタやロケ地他一番充実してて好きなんだけど、此処で既に三谷さんが真田丸は群像劇とか大坂の陣についても言及してるから胸熱。 真田丸 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー) NHK出版

5/5 2:18[ Mobile Web ]

私も以前は俗説に則り悲観的豊臣兵宜しく大坂の陣(特に夏)は最初から豊臣に勝ち目なかったのではと思っていた時代があったけれど、今では過去の自分と宗教戦争起こせるレベルで過激派になったから確実に浪人衆のお陰だなと思ってます。
5/5 2:24[ Twitter for iPhone ]

信繁が最後まで家族を思っているのは丸の特徴で「例え喧嘩をしても一緒にいなくても家族というのは切れないものです」って良い感じに三谷さんが紹介しててイイハナシダナーとは思ったけど、血縁絶滅危惧種の秀頼様のことを考えると頭抱えるから自動豊臣変換やめよう。
5/5 2:29[ Twitter for iPhone ]

心は離れながら物理的には一緒にいながら血は切れない大野兄弟の話する?治純が根も葉もない流言を豊臣方にばら撒いてた話する?!
5/5 2:31[ Twitter for iPhone ]

今回奥の院お参りの時に持って行ったのがこれ。本当に役立った!東洋のウエストミンスター寺院って言い得て妙。第一章に真田家のことも書いてありタイムリーだった。 戦国武将と高野山奥之院―石塔の銘文を読む 朱鷺書房

5/5 2:48[ Twitter for iPhone ]

五輪の塔についての解説も丁寧。室町以降増えたとか、元は小さかったが近年大型化して行ったと。1590の三成五輪塔は260cm、慶長期はより大型が増加し1615の秀頼様と淀殿の物は共に300cm程。
5/5 2:51[ Twitter for iPhone ]

秀頼様石塔は五輪塔砂岩製で総高302cm。銘文 正面:御取次筑波山知足院 嵩陽院殿秀山大居士尊儀 慶長貳十年五月七日 とある。並んで立つ淀殿の石塔が295cmで同日の日付、銘文も共に御取次筑波山知足院とある。知足院僧侶の光誉は冬の陣夏の陣の時にヤスの陣にいて戦勝祈願をしたと言う。
5/5 3:00[ Twitter for iPhone ]

豊臣家滅亡に臨んだヤスは秀頼様と淀殿の供養の為にその光誉に命じて奥の院にこの両塔を造立したのではなかろうかと作者。淀殿石塔は火輪の半分程の欠損のみだが、秀頼様石塔は地輪と水輪のみが立ち他部分は地に落ちて残欠状態。
5/5 3:02[ Twitter for iPhone ]

秀頼様石塔は謙信の見つけた時、あれ、そろそろ傍に…あったー!!秀頼様だーー!!と即発見出来たのである意味あの特徴あるお姿が目印になったのは否めない。すぐ傍に景勝直江夫婦のもあったよ。分かりやすい位置にあって良かった。
5/5 3:04[ Twitter for iPhone ]

秀吉様石塔は高野山においては古いものはない。豊臣家墓所にある古い石塔は母大政所や弟秀長、浅野長政のものとされる。1940/5/17豊公会により秀吉様五輪塔が現在の豊臣家墓所に造立された。正面には豊臣太閤秀吉公墓と刻される。五輪塔内部には秀吉様衣冠束帯姿の古い木像が納められている。
5/5 3:10[ Twitter for iPhone ]


石田三成の青春補足。作者は1957生まれの女性だけれど心はいつ迄も少女漫画なのかなと特に後書きからも思えた。田附清子さんの寄稿があるから余計そう思えたのかも。歴史上の人物を扱った青春小説だから所謂時代小説とは呼びたくないな。
5/5 3:14[ Twitter for iPhone ]

ラストシーンが美しい、との宣伝を先に読んでいたけれどカバー裏で既にネタバレじゃないですか。それはどうなのか…本題=三成と吉継の友情をどーんと見せたかったにしても裏側だけで良かったのでは。
5/5 3:17[ Twitter for iPhone ]

と、此処まで書いて初出一覧見たらツイッター連載となってたの驚いた。ケータイ小説とか最初に書いたけどマジでそう言うこと。
5/5 3:18[ Twitter for iPhone ]

第一章 美しい誤解 出会いの参献茶 第二章 出仕 長浜城小姓部屋 第三章 軍師の条件 半兵衛の秘策 第四章 三成の恋 微笑みの名残 第五章 清濁 本能寺の変異聞 第六章 泰平への誓い 夫として父として 第七章 浮き城 忍城水攻め
5/5 3:21[ Twitter for iPhone ]

第八章 友情のかたち 三成襲撃事件 第九章 友よ 佐和山から関ヶ原へ 全体的にキラキラした三成像で、作者は三成が好きなんだなーと言うのがよく分かった。こう言う見方の三成ファン周りでよく見る気がする…何か特徴あるよね…?
5/5 3:25[ Twitter for iPhone ]

大河時代考証の黒田基樹著。今丁度大坂編やってるのでリアタイ感。1570生まれ説、第一次上田合戦参加説と揃って大河採用説を取っていた。 「豊臣大名」真田一族 洋泉社

5/5 3:29[ Twitter for iPhone ]

名護屋在陣時には真田は「いつものごとく」赤備えだったと言う。名護屋時は秀次が羽柴家当主=主君でも天下人はあくまで秀吉様。豊臣信幸口宣案紹介、伏見城普請の記述あり。先日真田宝物館で見たばかりの書状だ。
5/5 3:32[ Twitter for iPhone ]

豊臣サロンにおける取次役は三成。信幸と三成の交流多数掲載昌幸の領国支配と家臣団、花押紹介。信幸と信繁の領国支配。信繁は在京している中、小県の所領については全て昌幸の財政担当の家臣に支配を委ねていた上に、昌幸の沼田領財政からかなり借金をしていた。信繁の財政は昌幸の援助が必須だった。
5/5 3:37[ Twitter for iPhone ]

秀吉様遺物の配分は真田一族は腰物だけだった。公家成大名や秀吉様直臣譜代有力者には金子も配分されていた。秀吉様と真田の関係はその他大勢扱いだった。ヤスは9/7伏見から大坂へ下り9/9秀頼様へ重陽の節句を祝ったが、この時大野治長前田利長浅野長政長岡忠興らの殺害謀略があるとされた。
5/5 3:43[ Twitter for iPhone ]

そのためヤスはそのまま大坂に留まり、18日ヤスへの忠節を誓わせた起請文を出した上で、27日北政所が西の丸を退去したのを受けてそのまま西の丸に留まった。大坂城内に居住出来たのは羽柴家当主のみに限られていたからここにヤスは秀頼様との政治的一体化を遂げ天下人として統治にあたった。
5/5 3:45[ Twitter for iPhone ]

犬伏の別れ。「東遷基業」では天明山に登って気が茂った所で密談したとあるから宿所か。であれば本来は「天明の別れ」か。小松は大坂屋敷にいたので真武内伝の沼田城に入れなかった逸話は嘘。この時は吉継屋敷にいた。7/30吉継から昌幸宛書状、信幸妻を確認した、信幸にも心配ないとの書状あり。
5/5 3:50[ Twitter for iPhone ]

昌幸と三成の連携。昌幸宛三成書状。予め挙兵を教えていなかったことの弁明。p191、伏見攻めは誠に天罰ですの吉継書状紹介。8/5三成書状は昌幸信幸信繁宛。関ヶ原展、丸展でも見た。その他三成書状よりどうも昌幸は思う様な行動を取ってくれないとの思いが強かった様だ。
5/5 3:55[ Twitter for iPhone ]

第六章 第二次上田合戦。上田開城、真田庵、松代城。後書き見ると角川選書の真田信之も読まないとと言う気持ちに。豊臣大名・豊臣時代全体の研究、今後も頑張って欲しいものです。
5/5 3:58[ Twitter for iPhone ]

徳川による大義名分の戦と位置付ける正史、敗者側の視点に立った稗史。その生成の歴史と実態を比較しながら描いており面白かった。大坂物語から厭蝕太平楽記へ続く様は豊臣への哀愁を感じる。 大坂落城異聞――正史と稗史の狭間から 岩波書店

5/5 4:05[ Twitter for iPhone ]

作者は近江源氏先人館や鎌倉三代記と言った大坂落城物を見た時の衝撃で本書執筆を思いついた。近年、正史に対抗した実録本や講釈の稗史の採掘が行われ正史との隙間が埋まって来ている。そこで大坂落城異聞の実態をアプローチしたいと思ったとのこと。
5/5 4:09[ Twitter for iPhone ]

第一章 大野治房の逃亡と一類の摘発 第二章 豊臣国松と霊樹院 豊臣秀頼一類の九州方面逃亡 第三章 大坂落城の記憶と慰霊 第四章 大坂落城の記憶とその変容 稗史「大坂落城異聞」の成立 結語 甦る敗者たち 正史と稗史の棲み分け
5/5 4:11[ Twitter for iPhone ]

第一章。治房の最後の決戦軍令状二通紹介。治房男子は結局処刑されるので後味悪い。大坂落城後34年間に渡る潜伏の謎を解説。事件の発端となった長女は近江箕浦誓願寺の門跡となっていた。主馬次女は有馬温泉に嫁いでいた。次男は糸割符商人、三男は妙心寺小姓奉公。
5/5 4:17[ Twitter for iPhone ]

第二章。日出藩木下家と国松伝承。木下俊氏の一子相伝の話は「秀頼は薩摩で生きていた」に詳しい。初代日出藩木下延俊の慶長日記は貴重な資料。ねね北政所が最も信頼していた侍女、孝蔵主は後に駿府のヤスに仕える。二重スパイだったのか。
5/5 4:25[ Twitter for iPhone ]

慶長日記は慶長18年正月元旦から始まる。6/28大坂で秀頼様に挨拶。7/5日出。慶長19年冬、延俊は備前島に布陣。細川忠興は密かに出奔させた重臣米田是季を秀頼様に出仕させていた。次男興秋は無断で大坂方に参陣していた。忠興は大坂落城を前に苦渋の決断をしたが本人は面目を保った。
5/5 4:32[ Twitter for iPhone ]

1642/1/7木下延俊の死。嫡子俊治が継ぎ25000石を拝し、弟延由に5000石を分かち与えた。大坂落城から27年、この5000石分治が国松伝承の発端になった。木下俊の一子相伝には以下の様にある。
5/5 4:35[ Twitter for iPhone ]

延俊は臨終の際江戸詰家老長沢市之丞を呼び出し遺言を申し付けた。長男俊治を二代目日出藩主に、弟縫殿助を延由俊改名させて同藩内立石郷に一万石を分封せよと。市之丞は一万石を五千石承りましたと頑なに固執し遂に立石郷の分封は5000石の小名に決まった。
5/5 4:38[ Twitter for iPhone ]

市之丞は後日縫殿助(延由)が豊臣国松と知り、国松への主君延俊の心尽しの情愛を解せず主命に背いたと書置きを残して1673/10/16切腹した。国松のことは家老も知らぬ秘中の秘だった。←これ何で後から判明したのか謎過ぎる。
5/5 4:40[ Twitter for iPhone ]

木下延由が国松と疑わせるのが立石郷の菩提寺長流寺の位牌である。 表:江岸寺殿前掖庭月渕良照大居士 裏:明暦四戊戌稔七月六日 木下縫殿助豊臣延由 豊臣の姓は本藩木下家にすら許されていない。敢えて法名に豊臣を名乗った由緒は何か。丸に十字の家紋も島津ゆかりを感じさせる。
5/5 4:46[ Twitter for iPhone ]

熊本藩細川家家老職の有吉家では九州に逃げた秀頼様の一女、霊樹院(古屋姫、主姫)を正室に迎えたと言う家伝を伝承している。細川忠興が秀頼様を匿い娘を有吉家の五代英貴に嫁がせたと考えるが妥当か。忠興は早くからヤスに味方し東国大名として出陣したが豊臣氏滅亡には哀愁の念を禁じ得なかった。
5/5 4:56[ Twitter for iPhone ]

国松様処刑を見た忠興が国元中津に送った書信。「秀頼様若君八つにならせられ候を、伏見町にて探し出し、一昨日廿二板伊州(京都所司代板倉勝重)へ上せ申し候。昨日御生害に候。目もあてられざる次第に候」
5/5 4:59[ Twitter for iPhone ]

霊樹院の特別な権威を示す記事として、霊樹院の実子六代英安が急死した際の跡目争いで、霊樹院が細川家の御意に従わなかったこと、大徳寺高桐院に霊樹院、陽光院(英貴)、長岡伊豆守(三渕好重)連盟の墓碑が存在することがある。更にその隣には長徳院(英安)の墓碑が並んで立っている。
5/5 5:03[ Twitter for iPhone ]

この二基は霊樹院に関係深い縁者ばかりで細川家歴代墓域とは異なる場所にある。臣下のしかも女子の墓碑が細川家由緒高桐院に存在すること自体謎。正史では国松は処刑され霊樹院に当たる女子はいない。
5/5 5:06[ Twitter for iPhone ]

コラム 長宗我部盛親実子 実親の大坂城脱出。伊予国宇摩郡中曽根町(伊予三島市)蝶野家に伝わる系譜書。1635/2右衛門太郎実親が書き残したもの。徳川方の追求を恐れ無姓とし、その後蝶野と改めた。父と共に夏の陣に出陣していた実親は大坂脱出後、山陽道から渡海し伊予に逃亡した。
5/5 5:10[ Twitter for iPhone ]

父の仇を討とうと時節を待つが時既に蟷螂の斧であることを思い知らされ百姓身分の己を受け入れ、せめて長宗我部の出自と血脈を子孫に残そうと決意した。一方実録厭蝕太平楽記の長宗我部父子。五人の男子の内、五男五郎は国松様の身代わりとして育てられ、若君の身代わりとなり徳川方を欺き斬首された。
5/5 5:13[ Twitter for iPhone ]

第三章。徳川方と豊臣方の墓碑。大坂方の慰霊は殆ど記録に留められなかったが、監視の目を掻い潜り建立された。塙団右衛門墓、重成墓と遺書(本庄村藤井氏)、薄田兼相墓、近年の幸村墓、又兵衛墓。
5/5 5:18[ Twitter for iPhone ]

第四章。流行神「残念様」木村重成。1828/5/6重成命日に合わせ突如大坂市中を沸騰させた重成墓参拝騒動。敗者の無念さが病苦その他の願掛けを成就させる流行神に変身したと言われる。これは大坂町奉行が取締に乗り出す事態にまで発展した。
5/5 5:20[ Twitter for iPhone ]

堺南宗寺ヤス墓の謎。絵本太閤記の絶版。幕府の大坂落城と川崎東照宮の退去。浄瑠璃歌舞伎大坂落城物の成立。鎌倉三代記は人々に親しまれているが上演されるのは第七、絹川村閑居のみである。本当の危うさは第九。落城脱出を前にした大詰めの高綱=幸村の捨て台詞が大坂人の本音だったが幕府不許可に。
5/5 5:24[ Twitter for iPhone ]

それ故第九は上演されず読本に留まったのだと。実録 厭蝕太平楽記に見る豊臣方。幸村は正則に通じてヤスに一泡吹かせ秀頼様再起を謀るがヤスが病死し頓挫する。ヤスに続き島津義弘、幸村、秀頼様まで急逝し一気に事態は終焉に。作者は主要人物の遺言によって物語に結着をつけようとさている様だ。
5/5 5:28[ Twitter for iPhone ]

義弘遺言、右府御父子御大切に。幸村も夏の陣後の疲労から吐血し重体になり、後継義忠に秀頼様国松様の保護を頼み枕頭に主君秀頼様を招き遺言して亡くなる。幸村遺言:君、今よりは天下の望を断給ひて此国の客となりて御身を安座したまへ。
5/5 5:32[ Twitter for iPhone ]

秀頼様は大黒柱幸村の予想だにしない急死に動、夢破れ生き甲斐を見失ったのか病に罹り死を予期して島津義忠に後事を頼み国松様を枕辺に呼んで遺言:今よりして、義忠を父とせよ。大助を大師とおもへ。秀頼様は12/18、24歳で病没。
5/5 5:34[ Twitter for iPhone ]

徳川幕府は秀頼様の薩摩逃亡の密告を聞き一行を討伐しようとするが、ヤスの遺言「天下の大事は大久保彦左衛門に相談すべし」より、幕府軍は彦左衛門の発言に従うこととなる。彦左衛門は再び大乱を起こしてはならないと告げる。
5/5 5:38[ Twitter for iPhone ]

薩摩島津氏は事なきを得、秀頼様一類薩摩逃亡は不問とされ大坂落城稗史は大円満を迎える。最後に取り残された国松については厭蝕太平楽記は何も答えてくれない。ここから前述の日出藩木下家の国松伝承に繋がる糸が浮かび上がって来る。
5/5 5:39[ Twitter for iPhone ]

近年でも稗史は突如甦る。辻原登「花はさくら木」、万城目学「プリンセストヨトミ」。徳川幕府は勝者への怨み、敗者への同情が自らに向けられるのを恐れていたが、グレーゾーンにより制御する方策を選択した。大坂落城物の突如差し止め、絵本太閤記の絶版は暗黙の了解を逸脱した時点での弾圧だった。
5/5 5:43[ Twitter for iPhone ]

豊臣贔屓の稗史にも巧みな心配りがあったと思える。厭蝕太平楽記の結末は最たる例。仁政を持って国を治めよ。天下は天下の天下なり。徳川の占有すべきものではない。ここには徳川支配を受け入れながら巧妙に折り合いをつける柔軟性が顕著である。平和を望む思いは豊臣徳川両者共に共有されていた。
5/5 5:45[ Twitter for iPhone ]

この御本は単純な秀頼様生存説とは一線を画して、あくまでも正史とされているもの、稗史として人々に受け入れられたものを、何方が正しいと言うのでなく、イーブンな時点で見ているのが好印象。厭蝕太平楽記の結末ではないけれど大円満を迎えて終わった感覚。面白かったー!
5/5 5:48[ Twitter for iPhone ]




豊臣や大坂の陣関連の本は取り敢えず一度は手に取るくらいのスタンスだから
当たり外れ結構激しいんですけど、だからこそ良い御本に出会えると慶びも一入だったりする。

本の感想が長くなったのでそれ以外の戯言は別の記事でログ拾っておきます。
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