BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
最近読んだ本。
本の感想が多いので他の戦国雑記と分けました。


①「日本史有名人の身体測定」 篠田達明。
PHP文庫程度の内容だなあ。
身長を推測する際の計算方法を書いてはいるけれど、正直疑わしいし
読み物としてのエンターテインメント重視かなって印象。



②「真田信之 真田家を継いだ男の半生 」 黒田基樹。
安定の黒田先生の御本でした。
信之のことより大坂の陣の章で信政信吉のところメインに気になってしまったのは豊臣兵の性。



③「戦況図録大坂の陣―永き戦乱の世に終止符を打った日本史上最大規模の攻城戦」
これは定期的に読んでいる一冊で、兵の数や出陣武将を見たい時に開いているんですが、
少しメモしておきたいところがあったのでここにも書き残しておく。



④「大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む 」邦光 史郎。
今となっては信じがたいけど昭和の秀頼様感ってそんな母親の言いなりな感じなのです?
つーかこの作者豊臣のこと完全に舐めてるだろ。
今後回避するためにも一応記録として残しておくけど。





ツイログ。


<5/9>
身長並べた親しみやすいイラストは可愛かったけれど秀頼様マザコンとか淀殿が我儘とか解釈が昭和の俗説過ぎるから略歴出直して来い。 日本史有名人の身体測定 KADOKAWA

5/9 22:19[ Twitter for iPhone ]

道三182、勘助140、元就166.6、信玄162、利休178、龍興190、謙信160.5、信長170、秀吉様140、利家179、元親180、ヤス159、お市155、高虎188、三成156、正則157、清正159、信親185、政宗159.4、淀殿168、秀家170、秀頼様180。
5/9 22:23[ Twitter for iPhone ]

江145、秀忠158、武蔵185、小次郎182。子飼いほぼ横並びなの可愛いなって思うけどそれ以外の身長は疑わしいところもあるな。肖像画、人相書、縁故者証言、肖像写真、遺品、身体計測等から推論したっての近世の人間は正確性高いだろうけど戦国時代はなあ。
5/9 22:25[ Twitter for iPhone ]

秀頼様が堂々とした体躯なのはよく言われているけれど南蛮人の愚説に言う様に体も動かせないとかだったら当時の記録にもっと面白おかしく書いてあってもおかしくないだろうにそう言うのないし、抑そんな不健康な育てられ方させられる筈がなかろうにバッカじゃねーの。
5/9 22:30[ Twitter for iPhone ]

この本は秀頼様の性格が俗物過ぎて一昨日出直して来いって話だったけど「六尺豊かで目元涼しく頬はふっくら、気品に満ちた面立ちの見栄え良い青年」ってのは評価した つーかこれ多分養源院の肖像画見て書いてるんだろうな。
5/9 22:33[ Twitter for iPhone ]

大河監修黒田さんの信之本。花押と印判の変遷が面白い。信之は慶長16年春から5年以上病気だった。信繁大坂入城を信之側から見るとそりゃ困惑だと。 真田信之 真田家を継いだ男の半生 (角川選書) KADOKAWA/角川学芸出版

5/9 22:41[ Twitter for iPhone ]

真武内伝では信吉信政が木村勢を持ち口を攻略しようと試み、これを見た重成が「六文銭の旗は貴方の一族か。真っ先に若武者が矢鉄砲を恐れずに処せして来るのは城攻めの法妙を心得ている。」と信繁に聞き、重成が関心し矢鉄砲を放つなど命じた話は全くの創作。信繁は真田丸に在陣していたからである。
5/9 22:46[ Twitter for iPhone ]

信繁だって24時間真田丸にいた訳ではないって可能性はないんかね。この逸話だけでなく、誰が聞いて誰が書き残したかって分からないことのが多いからそれ疑うと何も確信持てなくなるけど。
5/9 22:47[ Twitter for iPhone ]

黒田さんはこの御本で豊臣家ではなく正式名称の羽柴家を用いて表記している。大河でも今後羽柴家表記押しで行くのかしら。豊臣と言う言葉の響きと豊臣と言う言葉に包括される意味合いが好きなので豊臣を積極的に用いて欲しい気はするんだよねえ 文書でも豊臣表記多いし。
5/9 22:51[ Twitter for iPhone ]

和睦成立後に信吉信政の陣所に信繁が訪れた話は「御家事留書」にある。信繁が二人の陣所を訪ねた理由は、先年は豆州様の御蔭で助命され今回は豆州様に忠儀をするべきであったが、死に場所がないままこの様になってしまい(信之は)さぞ不行届者と思われているだろう。良いように取りなして頂けるよう
5/9 22:56[ Twitter for iPhone ]

信吉信政にお願いしたい、と言ったと信政が後に語ったと言う。自分が大坂方になったことで信之に対する恩に報えなかったことを気にしてと思われる。
5/9 22:57[ Twitter for iPhone ]

「翁物語」では信吉は信繁に上座を譲り、信繁は上座に座すと「貴方が4歳の頃に会ってから今夜が初めてになる、思いの外成長していて伊豆殿も心配ないだろう、伊豆殿にもお会いしたい」と語ったと言う。その時信政が出て来て信吉は弟ですと紹介するも信繁は会釈して頷くだけで信吉にのみ話したと言う。
5/9 22:59[ Twitter for iPhone ]

この話が真実かどうか不明だが、信吉信政に付き従っていた矢沢頼幸村、宮下藤右衛門、小山田(真田)之知と信繁は旧知の仲だったから、久々の対面を喜んだであろう。その内真田之知とは複数回面会しており(小山田文書)、この面会について信吉らはその状況を全てヤスに報告したと言うを(翁物語)
5/9 23:02[ Twitter for iPhone ]

これは敵方との内通を疑われないための処置であったに違いない。←さらっと読んだ時はイイハナシダナーなのに最後で台無しになるやつ。
5/9 23:03[ Twitter for iPhone ]

夏の陣では5/6は信吉信政は井伊、藤堂隊軍勢所属、のみで戦況の詳しい説明はなし。天王寺では本多忠朝の組に信吉信政は属し、大坂方で対峙したのは毛利勝永の軍勢であった。←ここから勝永無双だから完全に勝永に肩入れして読むやつ。
5/9 23:08[ Twitter for iPhone ]

本多軍は中央に忠朝、信吉信政らは右手に布陣していた。中央では毛利勢の迎撃に会い、主将の忠朝が戦死、真田勢も毛利勢の猛攻撃を受けて苦戦したらしい。真田勢では夏の陣全体で陪臣三名を含む52名の討死衆を出しているが、その殆どがこの時の合戦によると思われる。
5/9 23:10[ Twitter for iPhone ]

沼田衆では重臣の根津主水、原郷左衛門、恩田左京ら、上田衆では春原六左衛門、飯島市之丞、青木半左衛門ら。手負い衆も上田衆の鎌原伊右衛門(伊志嶺と同一人か)を始め23名が出ているが殆どがこの合戦によると思われる。(真田文書)因みにこれらの討死手負は所領わ与えられた直臣とそれに準ずる
5/9 23:13[ Twitter for iPhone ]

陪臣裁判に限定されてのものであったから隋兵や動員された下級兵士は対象になっていない。戦死率はそれらの方が高かったから実際の真田勢の戦死者、負傷者はそれらの数倍と推測される。
5/9 23:14[ Twitter for iPhone ]

ここねーーー真田側から見てるから痛ましいと思うべきだし実際に痛ましいんだけれどそれ以上に勝永ああああああ過ぎて本当勝永無双に興奮してしまって 勝永鬼強い…最高かよ…っ!
5/9 23:16[ Twitter for iPhone ]

戦後信之は今回の大坂では信吉の次第はよくヤスと秀忠の耳に入り私は満足だと書いていたと。残党狩りに関する幕府文書は信之の元にも届き、かなり厳しい内容だったことが伺われる。馬場主水事件についても言及。この事件は白川家文書、小川家文書、取捨録等家臣の書上のみに見えているもので詳細不明。
5/9 23:20[ Twitter for iPhone ]

概要は、1616、信之家臣の馬場主水が出奔した上で大坂の陣の時に信之が大坂に内通し信繁じんしょに玉クスリ兵糧を送っていたとヤスに訴訟したと言う。その為幕府から尋問されることになったが、宿老宮下藤右衛門家臣の小川治郎右衛門が、宮下の仕業であり自分が信繁の陣所にそれらを運んだと
5/9 23:22[ Twitter for iPhone ]

申し出た為、信之は宮下を江戸に召喚して成敗し、馬場についても幕府に要請して引き渡してもらい小川に命じて殺害させたと。事の真相は不明であるが結果として有力宿老の宮下藤右衛門を撮影していることからするとその様な犠牲者を出さないでは解決が図れない深刻な問題だったのだろう。
5/9 23:24[ Twitter for iPhone ]

最後に真田氏発給文書一覧(慶長6年~元和2年)を記載。この本自体が信之の前半生を史料に即して辿って来たものだからである。1616、この頃信之は本拠を沼田から上田城へ移したと考えられるがその時期について伝える史料はない。沼田は信吉へ。その後元和8年に信之は松代へ。
5/9 23:29[ Twitter for iPhone ]

第一章 関ヶ原合戦までの信之 第二章 徳川政権と関係 第三章 領国と家臣団の再編成 第四章 親しき人々との交流と別れ 第五章 領国支配の再編成 第六章 大坂の陣における信之 第七章 沼田城から上田城へ 主要参考文献 真田氏発給文書一覧(慶長6年~元和2年) あとがき
5/9 23:32[ Twitter for iPhone ]

大坂の陣以外のとこほぼスルーなのは仕様です。しっかりした御本でした。
5/9 23:33[ Twitter for iPhone ]


<5/14>
「戦況図録大坂の陣」が好きで定期的に読み返してるんだけど、初めて読んだ時よりずっと各々の武将に思い入れあるし知ってる内容ばかりでも何度見ても胸が痛むし豊臣家と大坂方への愛おしさで胸いっぱいになる。

5/14 3:56[ Twitter for iPhone ]

秀頼様御生害の時「京の東にある豊国神社には、豊国家滅亡を悼む庶民たちによって、香華、香銀がうず高く積まれ、香の煙が天高く立ち昇ったと言う」の一文に袖を濡らさずにはいられなかった。
5/14 3:59[ Twitter for iPhone ]

冬の陣西軍大坂城籠城武将配備一覧が載ってるんだけど、二の丸(兵51100)の西方(兵12800)、西の丸の西は勝永5000と速水時之4000。勝永隊の一部は三の丸(兵35000余)の西方(兵8600)のつ内、今橋に勝永500。近くは思案橋に名島忠純500、平野橋に赤座直規300。
5/14 4:04[ Twitter for iPhone ]

1983年発行。冬の陣と夏の陣の屏風を部分ごとに分けて丁寧に解説。合間に戦の概要、逸話の説明もあるのは良いけれど人物評価がクソ。 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む (二十一世紀図書館 (0023)) PHP研究所

5/14 4:16[ Twitter for iPhone ]

「大坂方で最大の働きをした天王寺口の毛利勝永隊である。背に、金の円月の一部を切り取った形の差物をつけた鎧武者が多く描かれている。これが金の半月の番指物と言われるもので毛利隊の目標であった。」
5/14 4:18[ Twitter for iPhone ]

秀頼様のことをボロクソに描いていて侮蔑しか感じないので却下。マジで昭和の秀頼様感おかしいんですけど全然ロボットじゃねーから。そんな自意識が喪失していたら夏の陣起こってねーんだよ。いやこれは正に古書の歴史観による実例を垣間見たとして納得しておかねばならないのだろうか。
5/14 4:22[ Twitter for iPhone ]

冬の陣図屏風は右隻は秀忠とヤスの陣所、左端に惣構堀と東横堀川で守られた大坂城惣構、三の丸、その中間に様々な旗を翻し群集する東軍諸将を描く。圧巻は真田丸部分。左隻左上端は11/26鴫野今福、右下端に12/17本町橋夜討、右隻には12/4真田丸。謂わば合戦のハイライト集。
5/14 4:27[ Twitter for iPhone ]

本屏風それ自体は江戸末期の模本だが大坂城の地形や構造が当時の史料と一致すること、東軍諸将の配陣や合戦細事が正しいことから、原本は冬の陣直後に描かれたかと推測される。冬の陣では将軍画家として秀忠の「御伴仰せ付けられ」ていた狩野探幽が絡んでいた可能性?
5/14 4:30[ Twitter for iPhone ]

夏の陣陣図屏風の5071人と言う人口密度は桁違い。ほぼ同じ大きさの狩野永徳の洛中洛外図屏風は約1800人。戦国合戦絵屏風の中で庶民の姿を克明に描いたのはこれが唯一のため、評論している内田九州男はこの屏風を「元和のゲルニカ」と評される所以と紹介。渡辺武以外でもこの表現使われてたか。
5/14 4:36[ Twitter for iPhone ]




今また積んでる本が片手を超えてしまったんですけど常に同じこと言ってる気がする。
気になるタイトルは取り敢えず読んでみたいとホイホイ手を出してしまうのが原因なんだけど
実際に読んだら面白いからな。良いことです。精進したい。
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