BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
「後藤又兵衛 - 大坂の陣で散った戦国武将」読みました。

福田千鶴先生の「後藤又兵衛 - 大坂の陣で散った戦国武将」(中公新書)読みました。

勝永本とほぼ同時期に出て、私の周りでは勝永を取るか又兵衛を取るかと
言った体のツイも見かけたりしたのですが私は勝永一択だったので
又兵衛読むの遅くなってしまった。
しっかりして良い御本でしたよ。



福田先生と言えば何はなくとも秀頼様の方ってイメージだから、
読む前から予想はしていたけれど後半は特に又兵衛を語りながら
秀頼様を褒めるみたいな相乗効果で安心の福田先生だった。


又兵衛にかこつけて秀頼様系で気になったところ多めにお拾い様しておく。

はじめに、では概要の説明。
又兵衛の人気は大佛次郎の1944年作「乞食大名」の貢献が大きいとのこと。

又兵衛の大坂入城について。

前提として、豊臣恩顧大名について。
西国大名の内、冬の陣では黒田長政、加藤嘉明、福島正則は江戸に残された。
平野長泰が大坂に入城した息子の長勝を連れ戻すために大坂に向かったが、
ヤスに江戸に差し戻されたことにも言及。
秀吉様の死後、長泰自身はヤスに仕えていたが、兄の平野長景(ながかげ)は
秀頼様に仕えて大坂城に籠城し、夏の陣で討死した。

黒田長政が又兵衛の大坂入城をいつ知ったかは定かではないが、
又兵衛の鴫野今福での負傷(又兵衛は5,6発の銃弾を浴びたが
少しも騒がず傷を探り、「秀頼公御運は強し」と言ったことを知ってい。大坂御陣覚書より)
に言及している書状からも、12/12までには知っていた様だ。

長政が又兵衛を執拗に追いかけたのは有名で、長政と仲の悪い細川家との交流、
そして独断での筑前からが許せなかったからだと。

又兵衛の系譜、家族構成等はここでは割愛。

又兵衛がキリシタンかと言う説については否定的。
彼が播磨で三男左太郎と法華宗の弟子としたこと、複数の妻がいたこと、
本妻がいながら播磨で新たな妻を娶ったことから等。

又兵衛の初陣は1577、黒田孝高が羽柴秀吉の先手として西播磨の攻略に向かった頃とする。
又兵衛の活躍がはっきり分かるのは1586の豊前有留津城の戦い。

豊前中津への入封。
九州平定の後、黒田孝高は豊前八群の内、六群が与えられた。
豊前の残る二郡六万石は毛利吉成に与えられた、とここで吉成の名前出て来ただけで
過剰に反応したのは豊前毛利隊の不可抗力な。

文禄慶長の役。
黒田長政は三番組で兵五千を率いて渡海。
平安城攻めでは、金の菖蒲の兜を着し、大身の槍を栗毛の馬上に横たえた又兵衛と、
白熊の棒の立物に鷺の丸の指物を指した吉田長利とが先陣を争い、
三千ばかりの敵に向かい縦横に突いて回ったとある(「黒田家譜」)。

朝鮮では、母里友信、黒田一成、後藤又兵衛の三人が一日代わりに長政の先手を務め、
諸将の戦いで高名をあらわした。特に第二次晋州城攻めで又兵衛が一番乗りをしたした
姿を清正が見て、その武者ぶりに感激したと伝わる。
また、蔚山では明日の出陣を約束したにも関わらず、物見として敵陣近くに遣わされた時、
川上から日本の馬の轡が流れて来るのを見て、味方が裏切って先駆けしたことを
長政に伝えたこともある。

関ヶ原の戦い。
ここで長政が小早川秀秋の調略に成功したことは有名だが、又兵衛との関わりは不明。

大隈城主としての又兵衛。ここで又兵衛が1万(一説には1万6千)石を領した。
城は益富山に置かれたので益富城とも呼ばれた。

又兵衛の妹は黒田家家臣、吉田重成の妻となった。
又兵衛を良く知る吉田重成が大坂の陣後に病気となり、有馬に入湯した後
京都を歩いていると、ある町屋の二階の障子を開けて道路を見ていた人がいた。
それが又兵衛であり、彼は「互いに存命して図らずも出会えたのは幸いである。
早く通行せよ。」と言って障子を閉めたと言う。
吉田家では又兵衛は大坂の陣で戦死したと諸書にあるため、疑念を頂きながらも、
又兵衛が主君長政に背いてまで大坂に入城したのは「利の為にして義に在らず」と断じ、
そのような又兵衛が秀頼様のために大坂で戦死するだろうか、との考えから
又兵衛生存説を取っている。


少し関係ないけど江戸城石垣普請の話。
1606/1/19、諸大名に江戸城普請役が命じられた。
黒田家でも人員を揃え、伊豆の石湯には栗山利安、小河之直、桐山信行、
江戸の普請場は母里友信、野口一成が奉行を担当した。
天守台は早くも5月に完成したのでその功をねぎらって秀忠から母里友信、野口一成には刀が与えられた。
その際に渡された目録に「母里」が聞き間違えられて「毛利」と記されていたため、
以後母里は毛利と改めるように長政から命じられた、と言う話がある。
大阪城天守閣の文書で伊豆国賀茂郡宇佐美村の返礼状は又兵衛が石の調達に
伊豆にいた頃のものではないかと考えられる。(「浪人たちの大坂の陣」)


いざ大坂へ。
又兵衛は播磨を出て京都から大坂に入ったとされる。
大坂入城に際しては中国の諸大名から三千余騎を借用したとある。
大坂陣山口休庵咄によれば、又兵衛が大坂城に召し抱えられた際の着到(率いていた人数)は
兵六千であり、黒田長政の家来で「小身者」と記されている。
信繁が六千、盛親が五千であるのと比較しても全く遜色のない人数である。
しかし、又兵衛の筑前の知行高は最大で16000石なので、旧臣を全て集めても六千人は不可能だろう。


ここから大坂の陣が始まるので秀頼様の描写が増えてどきどきしましたね
知ってることばかりでも秀頼様に言及されると反応してしまうのが秀頼様本陣の兵の性。

方広寺大仏殿を巡っての意義を唱える前に、既にヤスは長政らに
大坂方につかないように何度も徳川への起請文を結ばせている。
今後も秀頼様と好(よしみ)を感じることがないように、と名指しで関係を絶つように誓約させている。
ヤスはそこまでして豊臣方大名の裏切りを恐れていたのだろう。


秀頼様自筆の書状が島津家久に断られた話は聞くも涙語るも涙。
9/23、ヤスが方広寺大仏殿のことで機嫌を悪くしたので、種々断りを入れたけれども、
大仏の件を差し置いて、片桐且元を通じて大坂の城を明け渡すか
江戸に屋敷を得て諸大名のように詰めるか、母を人質として江戸に詰めさせるか、
この三つの内の一つを選択するように求められ、これに同意しなければ秀頼様を
大坂に置くことは出来ず、関係の修復も出来ないと性急に伝えて来た。
一か条も納得出来ることではなく、且元が返事を急ぐので、取り敢えず返答の使者として
且元を駿府に下すが、家久を心より頼みとしているので急ぎ上洛して欲しい、と言うもの。
別状で、証拠の為に正宗銘の脇差を使者高屋七郎兵衛に持たせて贈るとしている。
同日付では大野治長や治房も家久の上洛を要請する書状を送っている。

太閤様への御奉公は関ヶ原で返したと言うやつな。
それでいて何度も来た似た書状にも同じ返事を返ししまいには使者を捕縛して
大坂に送り返して、以後に派遣された使者は徳川に引き渡すとか書いてるので
胸糞なんてもんじゃないですよ 私は秀頼様ご一行の西国逃亡説を聞く度に
夢があるなとか島津も心苦しいことはあったんじゃないかと言う気持ちを無視することは
出来ないとは思うけれどもこの辺りの逸話がずっと胸に刺さってずっと抜けないんだ。
結局、家久は冬の陣には参加することはなかった訳ですが。

大坂五人衆のことは「長沢聞書」と「後藤合戦記」が優れた伝記として残されている。
「長沢聞書」によると、慶長19年7、8月頃から大坂の陣が取り沙汰されていたが、
この年は様々なことがあったと言う。

春より下々では門屋、木戸屋と言う言葉が習慣になっており、
「十五にならば(家の)前に垣を召されよ」と言う唱歌をひたすら歌っていた。
五月晦日には大雨が降り、摂津河内和泉の三国の境がなくなって一つの国のようになり、
摂津国の大堤が切れたのを「今ぎれ」と言った。
六月末より伊勢踊りが流行り、国々から人が集まり、大坂の陣が始まってもそれに構わず踊った。
九月に天下が輝くほどの光る物体が東から西へ飛んだのは午後六時ごろで、
十月二十五日に大地震、その他様々なことがあったと言う。
大洪水、彗星飛来、大地震と天下の大乱が起こることを暗示させる天変地異が続き、
そうした中で伊勢踊りが爆発的に流行し、これに乗じて多くの人が諸国を動き回り、
大坂を目指して集まって来た。

10/19付の「本光国師日記」には、盛親、信繁、仙石秀範、全登ら浪人衆が
大坂に入城したとあるが、又兵衛の名前はない。
大坂陣山口~の「小身」宜しく、最初から抜群の知名度があった訳ではないようだ。


五人衆の紹介では、散々知っている三人衆はここでは割愛しておく。

全登は関ヶ原では敗軍の将だが、戦場で長政と遭遇し、その説得で救出された。
長政がヤスに助命を願い出、戦後は筑前に居住した。(「宇喜多秀家と明石掃部」)
小早川秀秋に仕えていた斎藤三存が生け捕りにして秀秋に渡した説もある。
え、大違いじゃない?

斎藤献氏収集文書の中には10/5の「明石掃部かきおき」がある。
高野山を下り京都を出たところで書いたもので、自分がいつ死ぬかも分からない状況で、
今日の暇を満足し、いつ死んでも同じことと達観する姿勢を見せている。
娘を武士に嫁がせたくないとは、何かひどい裏切り行為でもあったのだろうか。


又兵衛に話を戻す。冬の陣。
ある時、又兵衛は秀頼様から秀吉様やヤスの備えを再現するように依頼され、
天満浦にて采配をふるって秀頼様に見せることがあった。
秀頼様はたいそう感激し、見物の侍たちも又兵衛の軍術は「摩利支天もかくや」と
目を驚かせたと言う。(「長沢聞書」)

何か、こう言うふとしたところに出て来る秀頼様が喜ばれた、の一文にこの上なく愛しさを感じるのですわ。
大坂の陣関連の御本は秀頼様の動向については記述してあるけれども、
こんな情勢でも秀頼様が慶びを覚えることが確かにあったと言うことを忘れたくない。

秀頼様の覚悟としては、
「諸浪人が自分を頼みとしているのに、それを捨てて自己の一命を
助かろうとするのは人の道ではない。」と語られたことや、
「籠城と決した時の始めから、運を開こう等との覚悟ではない。
亡き父の遺言に任せこの城を墓場と思うだけである。」と言う豊内記の言葉を紹介。

道明寺の戦い。
4/26、大坂城では秀頼様の面前において軍議を開いた。
七手組頭は天王寺を平場にして合戦場を作り、十万の兵を二手に分け、総力戦で当たることを主張。
又兵衛はこれに断固拒否し、敵を城の大手まで寄せさせるのは労のみで功はない、
道明寺で迎撃し、敵が山を半分下ることろで敵の不意をつこうと主張した。(「大坂陣物語」)
この後又兵衛は平野に陣を張るが、秀頼様の許可を得ずに出陣したと言う説がある。
「豊内記」によれば七手組頭の裏をかいて高名をあげようとした治長が
又兵衛の提案を秀頼様に上申せずに又兵衛を道明寺に出陣させた。
秀頼様はこれを聞き、先に天王寺における総力戦と決定したので
急ぎ戻るように伝えたが、又兵衛は「御評定はともかくも我はここに討死すべし」と
言い放って帰らなかったので、仕方なく真田明石渡辺薄田井上などを後藤の後詰にせよと
秀頼様が命じたとしている。
秀頼様のそば近くに仕えていた者の言葉なので真実に近いのではないだろうか。

その後、夏の陣の戦の様子、又兵衛のお墓などの紹介。


大坂に籠城した浪人たちの心理について「豊内記」は以下の様に説明する。
①国と共に盛衰する社稷の臣。
②主人次第に盛衰する譜代の臣。
③渡り奉公人。善き国に身を寄せ、悪い主人であれば去る。
そうして流浪することになった浪人たちは、現在の徳川の天下に対して不満を持ち、
乞食同然の浪人たちを恵み救ってくれる新たな天下人として秀頼様を選んだと。



又兵衛は何を思い籠城したのか。
前田家所蔵文書に又兵衛の手紙が一通残されている。
「今日のことが明日は替わるような浮世の習いは面白いことです。
(武士は)大身・小身とも、道理をわきまえた仕方は「無口」と言います。」

目の前のいつ変わることもしれないことをとやかく言ったりせず、
無口で済ませることが武士にとって分別ある仕方ではないか。

「又兵衛は常に怒ることがなく槍を机に静かに押し付けるような言い方をし、
平常心を保って顔色を変えることがなかったと言われる。」(「後藤合戦記」)
ん、んん???私の知ってる又兵衛じゃない…???

細川忠興の5/11付の書状。
治長の不手際は論外と手厳しい。
一方、信繁、又兵衛の活躍は前例がない、重成、掃部の討死も手柄だったと賛美。
忠興は国松様処刑への「目も当てられぬ」から豊臣への思いも深かった様に
思えなくもないのだけれども治長disなのは如何なものか。

長岡興季は大坂籠城から9年後に幕府より方向構を解かれ、
その際に大坂籠城に至った経緯を表している。
すなわち、1607、主君細川忠興と不和になり、京都で浪人となっていた。
秀頼様が諸国の浪人を集めようとした際、細川家を出たとはいえ
二君に仕えるつもりはないと断っていたが、
会いもせずに断るのは失礼だと言われやむを得ず登城したら
強いて留め置かれいやおうなく籠城したと。(「綿考輯録」)

しかし興季は籠城後は治房の侍大将として12/16の蜂須賀陣への夜討をかけた際には
戦功をあげ千畳敷において秀頼様から褒美を与えられている。

「綿考輯録」では、治長の説得により籠城の覚悟をしめした興季は
他への配慮があるからと夜遅く22時頃に秀頼様に目見えをしたと言う。
興季が目見えを終えて退出する際、秀頼様は召していた小袖を脱ぎ
興季に与えた。後日興季が登城のためにその小袖を着すと
帯の跡がついたところが興季の膝の辺りにあり
「誠に大器量なる御方なり」と驚いたと言う。
「長沢聞書」にも「世になき御ふとり」とあるが、
現代的な感覚では「太る」は肥満をイメージするものの
近世初期に編纂された日葡辞書によると「太る」には「成長する」と言う意味があり、
立派な体格であったことの表現である。
興季の話も丈(肩から裾までの長さ)の違いに驚いており、
身幅(横幅)を問題にしている訳ではない。
立派な体躯を備えてることも、武将に欠かせない器量の一つであった。

最後に又兵衛の魅力について。
武力、勇猛さ、出で立ち、立ち振る舞いから見られる逸話で、
この人になら命を預けても良いと思わせる人物であったと評する。
そしてそれは秀頼様にも通じるものがあると。



又兵衛の御本を読んでいたと思ったら秀頼様の溢れんばかりの魅力を感じて
〆となったので大変誇り高い気分になった。
有難うございました。
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みなみ | URL | 2016/05/19(木) 09:54 [編集]
今度の日曜朝11時より小倉本就寺(吉成菩提寺)にて守護神祭、土日にするとは限らないで、むしろ必ず23日にしてたのですが。年に一度あるかないかの寺宝公開。早くお知らせできずすいません。
問い合わせがあればどうぞ。

管理人 | URL | 2016/05/19(木) 20:29 [編集]
>みなみさん
コメント有難うございます。
素敵な情報を教えて下さり有難うございます。
残念ながら今年は参加出来ませんが、来年以降気にしておきたいと思います。
いつかご縁があります様に。
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