BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
「長宗我部氏の研究」 で毛壱のとこだけ読んでた。

「長宗我部氏の研究」 津野 倫明 著。

泗川城のこと書いてあったのでそこらへん大変興味深く読みました。

長宗我部氏の御本なのに偏っていて申し訳ない。
ただ史料や考察が大変しっかりしており、他のところも面白いです
感想と印象に残ったのがここだけなだけです。


興味あったのが第四章の盛親ちゃんの家督相続、
第五章の慶長の役における元親の動向くらいだったのでそこメインで。
特に第五章ですね。
元親の所属は左右両説あると書いてあったけれど右軍ではなかったの。
左軍で毛利吉成父子の名前を見た時からテンション上がりましたわ。

「戦史」の九月廿二日史料(8/14~16の黄石山の戦いにおける黒田長政らの
戦功を報じた注進状などを披見した秀吉様が発給した朱印状の写し)が
毛利秀元、長宗我部元親、盛親等を宛先にしていることから右軍と考えるべきとは
書いてあったけれど、「豊公遺文」の「備立」が左右軍が「戦史」と逆になっているので
これを敢えて左軍と見る指摘もあると。
しかし、この「備立」自体が信憑性に乏しいとも。
うーん、ではやはり右軍で良いんじゃないか。

1597年9月の井邑会議は、諸将が以後の戦略を決定した場として重視されて来たが、
本書ではこの史料も取り上げている。
日本と朝鮮在陣諸大名とのパイプとなる釜山浦に毛利吉成を在番させると言う例のもの。
全文はこう言う文章なのね。
ここで「先度自全州御使衆ニ委申上候」とあることから、この方針は全州会議で
ほぼ決定しており、井邑会議はその補遺であったとのこと。

全州会議の史料は八月廿六日。
差出書の人名に元親、盛親が含まれていると言うことをこの本は取り上げられているけれど
それよりも毛利吉成がいつことを特筆したい毛壱兵です。
「左手・右手致参会」とあるように左軍、右軍の諸将が正に全州で正に一堂に会して会議を開いた。

「一番郡割之事」と言う史料に「興徳 毛利壱岐守」、「二番郡割之事」には「同福 毛利壱岐守」
「右手 毛壱」、の記載もあり。

井邑会議の顔ぶれが全州会議で「相残人数七万八千七百人ハ赤国ヘ罷戻」とされていた
諸将とほぼ一致することから、全州会議における方針はほぼ実施されていた
=井邑会議は全州会議の補遺であることが分かる。
諸将の内毛利吉成だけは連署状に見当たらないが、それは吉成が
既に釜山に向かっていたためと推測される。
ただ、「一番郡割之事~、二番郡割之事~」の史料に吉成の担当地域が記載されており、
吉政が豊前毛利勢や日向衆を率いて転戦しているので、
その軍勢も井邑に集結していたとみてよかろう。

「泗川倭城普請から帰国命令に至る動向」のところは大変面白かった。

1597年10月28日に島津忠恒らが慶尚道泗川に到着し、翌日より泗川倭城の普請が開始される。
同地で島津勢を迎え、この普請に携わったのは右軍の池田秀雄、中川秀成、毛利吉政や
軍目付の垣見一直、そして元親らであった。
同年12月27日には在番の島津父子が入城し、元親らも交えた祝宴が催されていたが、
その日蔚山からの戦いの急報が齎された。
当時、浅野勢、毛利勢による蔚山倭城の不振は完成間近に迫っていたものの、
12月22日より明、朝鮮軍が同城を包囲したのである。
泗川倭城の普請に携わっていた諸将は蔚山救援のために西生浦に向かった。
翌年正月1日、元親は一直にやや遅れて秀雄、秀成、吉成らと共に西生浦に到着、
二日には盛親を伴い船30艘を率いて蔚山に先行している。
西生浦に集結した他の諸将も蔚山への移動をこの二日に開始し、蔚山倭城を後巻したため
包囲は四日に解除された。
この時長宗我部勢160人は池田勢と共に「船手」に編成されており、
このように状況に応じて水軍に編成される点は興味深い。

諸将と秀吉様の間に存在した戦況認識のギャップはこの戦闘を契機に拡大して行くが、
その認識を端的に示しているのが安骨浦会議での決定である。
東端の蔚山を放棄し清正を西生浦在番とする、
また西端の順天を放棄し、行長を泗川在番とする。
泗川の島津義弘らは固城在番とし、梁山倭城を放棄し、黒田長政を亀浦在番とする。
この戦線縮小論は秀吉様の逆鱗に触れるが、とは言え、
長政の亀浦への撤退は認めており、また諸将の帰国についても指示している。



あと、次の「軍目付垣見一直と長宗我部元親」も唐入り関係で面白かった。
「元親記」に垣見一直と長宗我部元親が対立するエピソードが紹介されているが、
その泗川倭城普請をめぐる口論、戦線縮小論に関するエピソードの信憑性が乏しいと言う話。
史料から確認すると、元親は戦線縮小論に同意しており、
一直は縮小論を支持する立場にはなかった。
戦線縮小論をめぐる対立が元となって垣見一直と元親が口論になったとは思えなく、
旧主元親を賛美すべく、作者・高島孫右衛門正重が創作した虚構だと。

「元親記」の成立は1631。正重は元親近習であったとされる。
関田駒吉氏は「現今長宗我部氏に関する唯一の実録」、
渡邊哲也氏は「実録と言うより文学的側面のやや強い戦記物語」と評す。
そもそもエピソードの年代設定に誤りがあるとのこと(泗川普請や渡海の年代が違う)。



あとはあまり豊前毛利関係ないので割愛します。
長宗我部氏の感想全然ないのさもありなん…
盛毛利成分補給出来たので良かったです こんな〆方で御免。
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