BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
「地理から見た信長・秀吉・家康の戦略」を読みました。

「地理から見た信長・秀吉・家康の戦略」足利 健亮 著。

「琵琶湖畔安土に壮大な天主を建てた信長。
京都に聚楽第・お土居を築き、伏見城を構えた秀吉。
関東に入部すると迷わず江戸に本拠を移した家康。
彼らはなぜその地を選んだのか。地図や地形から検討し、戦略を読み解く。」

この説明にある通り、秀吉様関連では聚楽第と伏見城についてが載っていました。
普段大坂城関連ばかり読んでしまうことが多いけれども
元々お城好きだし、秀吉様の比類なき築城戦略についても興味津々なのですよ。

聚楽第の章では、「都」を否定し、京都を城下町化させたお土居とか、
聚楽第の外側に武家屋敷に因む地名があるとか。

聚楽第の四辺の全長は1000間で、聚楽第ゆかりの武家屋敷が聚楽第の南北東西の
それぞれ三倍の範囲があり、太閤記にある「四方三千歩の石のついがき」の
「四方」とは、この武家屋敷を含んだいわば惣構えの四辺ではないかと作者は推測する。
大坂城の惣構えは上記の聚楽第の「四方三千歩」の広さを凌ぐが、
それほど規模の差はないと。
聚楽第の造営人夫は大坂城造営のそれを凌ぐことが記されている(「宇野主水日記」)が、
もしその通りであったならば、大坂城造営に匹敵する大工事であったと考えられる。

お土居については、筆者は聚楽第の守備・防御を、
光秀が西方から本能寺を攻撃したことを教訓に、西方の防御に配慮した、
奇襲に備えた用心深さから築いたものではないかと推測する。


伏見城については先日ブラタモリでも見たけれど秀吉様の「普請狂」(土木狂い)で
あることが、よく分かる内容だった。
元々この丘陵には巨大な巨椋池があったが、前田利家に槙島堤を築かせ、
宇治川の流路を変えたこと、巨椋池の池中を南北に貫く小倉堤を築かせ、
その堤上を大和街道とし、城下の入口にあたる新宇治川の渡河点には豊後橋を架設。
また、巨椋池の北西岸側には淀堤を築いている。
淀城を築城し、五年後に破却していることも、伏見周辺における大きな土木事業だった。

淀城の築城と破却など、「普請狂」と呼ばれる程の秀吉様の行動は、
当時の人には「理解できない」ことであったと思われるが、実際は、
明確な目的があったはず。
淀殿の懐妊の知らせに喜んで淀城を建てた、と言う一面だけで秀吉様の狙いは分からない。
京都と奈良を結ぶ大和街道上で、戦略的に最も価値が大きいのが淀川渡河点であり、
またここは京都外港の拠点でもあり、天正17年における豊臣政権の二大政庁(聚楽第と大坂城)を結ぶ中心点でもあった。

淀城は五年後、1594に破却される。
その年は伏見築城が始められた年でもあり、「家忠日記」などによると
天守を始め多くの施設がかなりの施設が淀から伏見に引き取られていることが分かる。
伏見築城が始められた言うことは、京都が秀吉様の政庁所在地でなくなると言うことであり、
それによって京都の前衛としての意味あった淀城はその存立基盤を失うと言うこと。
しかも伏見と指呼の間にもう一つ別の城はいらない。
淀城と同時に淀の都を否定し、京町通りが天下の大通りになる。
また、城下町の在り方は、従来の「タテ町」ではなくなった。
大手の通りを「筋」とする「ヨコ町タイプの伏見城下町」に似た造りは、
これ以降江戸時代も見られている。



信長の安土については交通の要所とかそれらしきことが書いてあったけれども
ヤスが江戸を選んだ理由は不明で、「富士山が見えるところだから」、或いは、
「江戸に城を決めよと言う秀吉様の強制を受け入れて自身を納得させたのは
そこが富士の見えるところであったからだ」と言うのが結論となる、と言うのわろた。

しかも富士は不死身に通じると言うのは最高の説明だ、
思えば伏見も不死身と通音だから、秀吉様が最後に伏見に城地を求めた
理由の一端がこの地名にもあったかもしれない、でダジャレで〆てるの
すげー面白いなって思った。お後がよろしいようで。
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