BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
「日本史ドキュメント 大坂の陣」を読みました。

「日本史ドキュメント 大坂の陣」檜山 良昭著。

2010/3/12、タイムスリップ装置に乗り込んだ筆者が
1615年にタイムスリップした、と言う一文から始まるSF小説。
筆者から当時の人へのインタビューと言う形式で始まるので、
なーんだトンデモかって感じなんですけど史実のエピソードも割と忠実に盛り込んでおり、
秀頼様の描写はなかなか良かったことを記しておきます。
基本的に豊臣贔屓なので視線が優しいのも好印象です。


物語は方広寺鐘銘事件から大坂夏の陣、そして秀頼様西国伝説まで。
淀殿のことを淀君と記載しているのは如何なものか。ここは訂正願う。
長い小説で、細かいところで好きな箇所はあるものの逐次紹介は割愛するけれども、
秀頼様の描写大体美しいからそこ読んで欲しい。
「豊臣秀頼は情愛が深い人だったそうである。
周囲の人に対して優しい心配りが出来る性格だった。
だから、多くの人間が秀頼を慕い、秀頼のために命を投げ出した訳だが。
政治の世界ではときには私情を捨てて冷酷になるもの必要だ」とか、
堀の埋め立ての場面では
「およそ日本の歴史の中でも、これほど不誠実な和平協定はない。
落ち目の豊臣家をみんなでよってたかって虐めていると言った印象だ。
豊臣家を騙して喜んでいるような陰険さが感じられる。」とか、
ほんとそれな!!!ってなる表現が多くて赤べこ状態だった。
「城塞」で有名な小幡勘兵衛についても軽く説明あったり。
あとこれは結構毎回思うことなのだけれども、夏の陣で豊臣が負けることは
火を見るより明らかみたいに書かれることが多いのは如何と思う。
いやこの小説がどうと言う訳ではなく、ギリギリまで豊臣勝機があるとみていた見方もあることも
頭に入れておいて欲しいってだけです。
どちらにせよ、秀頼様の様に命よりも名誉や意地や義理を重んずる生き方は
何よりも気高く尊く勇ましく、真の君主として相応しいものとして尊崇したい。

ここで勝永のことも書いておく。
大坂入城時の紹介こそ簡素なものだったけれども、「最後の日」の描写は素敵だった。

ただ一人奮戦した勝永は、部隊を移動させて東軍に突破口を与えてしまった
大野治房に腹を立てていた。
「毛利豊前守はただ一騎にて戻り、主馬は臆して敵と見合い候て、
鑓を突かぬゆえ、敗軍いたし候、主馬はおらんうか、それがし、奴の首を跳ねもうさんと叫びつつ乗り回し候。
豊前守は後藤又兵衛、真田左衛門、長曾我部宮内少輔に遠慮仕りて、
軍評定にても口を出すことはなし。
始終黙っておられ候ゆえ、又兵衛殿あるとき豊前守に、まれにはお口を開き候え、
お手前のごとく、ものなどしゃべりそうらわねば、お口が腐り候わんと申し候。
豊前守、苦笑いし候て、身どもの口は食するためにこれあり、
ものなど申すためにはござなきとお答え申されたり。
寡黙の人なるゆえ、愚鈍との評判にて、人々軽く扱いいたし候が、この日の戦いぶりに目を見張り候。
まことに人間は口ではなく、行いによって評価を定むべきと感じいり候。」
逃亡者が相次ぎ、残った者たちも士気沮喪するなかで、毛利勝永は城兵を励まし、
大手門の守備を指揮するのである。


この勝永の描写めちゃくちゃ好き;;
そんな貴人でありながら戦場では鬼神の如き勝永なんですけど
大坂落城して表御殿千畳敷で秀頼様が家臣たちに最後の別れを告げる場面が
奇妙でしてね!

秀頼様の御言葉。
「今日総敗軍となりたるはそれがしの不徳のいたすところなり。
そのほうどもの臆するところにはあらず。勝敗は時の運なり。
そのほうども奮戦したるはそれがし能く承知いたし候。
あだ御運がなかりしと申すべきなり。
それがしは敗軍の責めを一身に負いて自害つかまつらん。
これ大御所に降参するにあらず。戦場においてたおれたる数万の家来どもへの義理なり。
そのほうどもはどことなりと落ち行きて、天命をまっとういたし候え」
これを聞きたる諸将は泣かざる者は一人もなし。
秀頼公お立ちになり、奥御殿にわたましなられ候後、
郡主馬、津川左近、毛利豊前守などはその場にて切腹仕り候。

↑ここさ!!!!豊前守の切腹早いから!!!!
秀頼様の最後を飾るのこそが豊前守ではないのか!!!!
勝永と秀頼様の関係を永遠に結びつけた(婉曲表現)ところではないのか。
いや小説ですから筆者の創作で全然良いんですけどね!



そして最後。
遠藤采女正は治長が芦田曲輪と山里曲輪との間を何度も往復しているのを不思議に思っていた。
どちらかに秀頼がおり、残る片方には女中たちが「御替え様」と呼ぶ
矢野吉右衛門が秀頼に変装して籠っているのだろうと考えた。
筆者は遠藤にインタビューを行い、矢野が替え玉だったかどうかを問う。
秀頼公が疱瘡を患った時に替え玉とするを、市正、修理、御袋様が思いついたと。
そして遠藤は、5/7の夜に秀頼公は芦田曲輪にいたと思われると述べる。
「そこは極楽橋に近く、また舟入りより二の丸に出るのも易しき。
(中略)修理亮が助命を願い出たるは大御所を油断させて、時を稼ぐためなり。」

未の刻(午後一時)、櫓から煙が吹きあがり、申の下刻ごろまで燃え全焼した。
この時小姓の高橋半三郎(15歳)、土肥庄五郎(17歳)、高橋三十郎(13歳)、真田大助(13歳)の
四人が西に向かって念仏を唱え、いっせいにエイと声を挙げて腹を切ったと言うのはフィクションである。
土蔵の中で何があったかを見ていた者はいないのである。
ここで三十二名が自決したと言われ、その名前のリストもあるが、
これは大野治長が梅津忠介に渡した書き付けに書いてある名前である。
それが正しいかどうかは分からないわけだ。
(中略)大野治長と速水甲斐守が櫓の中で亡くなったのは確実である。


最後は西国伝説を取り上げ、谷山生存説で幕を閉じる。
秀頼様が薩摩に落ち延び、生存していても、政治的存在としての秀頼様はもはや死んだも同然だったから、
豊臣の時代は大坂の戦いで終わったのである、
徳川家にとっては、秀頼様が生きていようが、死んでいようが、もはや脅威ではなかったと。


これは小説だからこのスタンスでも別に構わないし
作者の豊臣への優しさが感じられて良いなとは思うんだけれども、
史実だと絶対にないなって思いますわ。
実際に大坂で豊臣方残兵を血眼になって血祭にあげていることや
コックスの日記にも出て来るしつこいくらいの秀頼様への執拗な追跡を見ると
心から豊臣の血が怖かったんだと思わざるを得ないもの。


豊臣ノイローゼと言っている割に結局一番取り上げたいのがここかよって感じなんですけど
取り上げている逸話も詳しいし面白い小説でした。
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今度の土曜日千葉県市川で
みなみ | URL | 2016/06/13(月) 12:06 [編集]
渡邊大門さんの勉強会にて吉川広家の報告。明石掃部の女性マンガ家さんなど、一般の参加者も来そうですがいかがでしょう。遠いですか。

管理人 | URL | 2016/06/13(月) 22:44 [編集]
>みなみさん
こんにちは。コメント有難うございます。
失礼ながら、メールアドレスの方にお返事を差し上げました。
今後共宜しくお願い致します。
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