BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
最近読んだ本。
最近読んだ本です。


①「宇喜多秀家と明石掃部」 大西泰正
あまりに明石さんのことを知らないので少し勉強しようかと思って手に取ったけれども
あまり身にならなかったのは明らかに自分に受け皿がないだと自覚がある。
駄目じゃねーですか。



②「大坂城」江崎誠致
取り敢えず大坂の陣関連だから読んでみたけれど
豊臣カナリヤは豊臣に害を加えそうなものに出くわすと口を利かなくなるんだ。
つまりはそう言うことです。



③「秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風」狩野博幸
丸が聚楽第時代なのでこれ丁度良いかと思って手に取りました。
美術解説書元々好きだし、煌びやかな豊臣時代に相応しい綺麗な屏風の解説
興味深く読ませて頂きました。



④「進化する戦国史 単行本」渡邊 大門
大門の本合わないんだって毎回分かってる上で読んでいるので今更ダメージはない
…と言いたいところだけどそんな訳ないでしょうが いつもの大門だった。



⑤「消えた戦国武将と「その後」 (歴史新書) 」歴史REAL編集部編
コンビニとかで売っている廉価本程度の内容かと。
薄いしお値段もその程度なので最初からその手のカテゴリーだったか。



⑥「歴史の虚像を衝く」笠谷 和比古
先日軽く紹介したけれど豊臣兵ご用達の笠谷先生の御本でございます。
tkgw派でかたくなに認めたくないと思っている人よく見るけど、
関ケ原以降かなりの間ヤスが自分の名前では朱印状を発給することが出来なかったことや
豊臣家の知行地や人々の認識において、二重公儀体制と豊臣家の地位と
秀頼様が如何にやんごとなきお立場の貴人であったかをご確認下さいませ。


ツイログ。


<6/15>
大西泰正「宇喜多秀家と明石掃部」。各章が短く、展開して来たところで「で?」と言う推論で終わってる印象あったのが残念。

6/15 0:53[ Twitter for iPhone ]

文禄2年、在朝鮮日本軍の再編で秀家が頂点になった。これは秀勝の死が関わっているのではないかと。秀勝が病死した以上、在朝鮮日本軍の中で秀吉様の縁続きである秀家が頂点に立つことが必然視されるのではないか、と言ったところで終わるとか。たった3ページだよ。そこから展開してよ。
6/15 0:55[ Twitter for iPhone ]

資料は長々と引用してしっかり書いてあるのに何か読み進まないと言うか私が秀家あまり興味なかったからかな…目的は明石さんの方だったんだけどこっちもふーん…くらいだったからなあ。明石さん好きな人がオススメしてた御本だからしっかりしたものだとは思うんだけど私に受け皿がない。
6/15 0:57[ Twitter for iPhone ]

飯田忠彦の「野史」によると①宣教師による明石掃部の初見は1596/12/13長崎発信ルイスフロイスの書簡。秀吉様における建築監督として、また洗礼を約束した人物として。②翌日のフロイス書簡では掃部が洗礼を受けたこと、宇喜多秀家の姉妹婿であること、サンフェリペ号事件、26聖人殉教事件
6/15 1:00[ Twitter for iPhone ]

を受けて掃部は殉教の覚悟を定めた。掃部の受洗は1596末か翌年初頭。③秀吉様死後、掃部は備中美作で使徒的成果を収め2~3000の信徒を得ていたらしい。④関ヶ原合戦では黒田長政の勧めで降伏しその助命嘆願により筑前に移住。家臣300人と共に客遇されキリシタンの範として仰がれたが、
6/15 1:03[ Twitter for iPhone ]

その動向が長政の嫌忌に触れて禄を離れ、老母妻子と共に艱難した。大坂の陣が起こると大坂城で一軍の将となった。
6/15 1:05[ Twitter for iPhone ]

掃部は明石飛騨守景親=飛騨守行雄の子とされる。なお景親の自署は皆無なので行雄として差し支えない。慶長の方は不明だが文禄の役には掃部もいた。掃部は行雄存命中に家督を譲られたと考えられる。
6/15 1:12[ Twitter for iPhone ]

朝鮮側の資料「隠峯野史別録」によると漢城(ソウル)に陣を備えた秀家の武将として掃部の名があり、偽文書説もあるが掃部の自署書状からも朝鮮在陣が推定される。
6/15 1:14[ Twitter for iPhone ]

読んでてしんどくなって来たんだけど、ジュストの信仰心とかあまり興味なくてこの人信仰上の理由で参戦に踏み切ってくれたのは有難いけれどそれ以上でもそれ以下でもないからどうも…って感じだ。
6/15 1:17[ Twitter for iPhone ]

江崎誠致「大坂城」は読み物として面白いと聞いて手に取ったけど徳川派だし豊臣に対して侮蔑の感情読み取ったからハイ乙って感じだ。クローズアップとして小ネタを解説してくれるのは分かりやすいけど作者の主観が何となく偉そうなのがムズムズする。駄目です。

6/15 1:20[ Twitter for iPhone ]

最初解説本かと思ってたら小説だったんですよ。びっくりだ。評論かと思ってたのに急に作者が小説に目覚めたのかと思ったら最初から小説だった様だ。初陣木村重成、夜討ち大将、団右衛門別れ酒、団右衛門敗死す、とか、エピソードを紹介してるのかと思ったらキャラクターの台詞出て来たから。
6/15 1:28[ Twitter for iPhone ]

つか小説なら合間合間に史跡案内もかクローズアップとかいらないでしょ。淀殿が千姫に冷たいのも何年前の歴史観だよって感じだし飾り妻千姫とかさーーもう駄目。感想もやめる。1995年って言ってもしばりょより後でしょ 出直して。
6/15 1:32[ Twitter for iPhone ]

狩野博幸「秀吉の御所案内・聚楽第行幸図屏風」は大型本で同屏風絵、時代背景、見方が丁寧に解説されていた。秀吉様時代の京都の解説もあり。聚楽第、御所、行列の人々、見物人、人々の風俗、働く人々、子供達の解説。

6/15 1:37[ Twitter for iPhone ]

その他の聚楽第屏風との比較検討は堺市博物館の聚楽第行幸図屏風、三井記念美術館の聚楽第図屏風、洛中洛外図屏風の聚楽第、廃墟としての聚楽第、個人蔵の洛中洛外図屏風。
6/15 1:38[ Twitter for iPhone ]

屏風に描かれた人物は誰なのか、で秀長or秀次、織田信雄かと言った謎、また誰が描いたのかと言う絵師の謎。華やかな屏風の細やかな細部を丁寧に拾ってくれている御本でした。煌びやかな屏風絵は見ていて楽しいですね。
6/15 1:40[ Twitter for iPhone ]

大門の「進化する戦国史」は何処ぞで読んだことある内容の使い回し的な感じ。たから大門とか手に取るだけ無為だって過去の私が言ってたじゃないですか!信長は本当に革新的人物だったのかとか、信長の素顔とか、戦国板で私がワイワイ見てた頃には既にそれくらいのこと言われてた様な。

6/15 1:45[ Twitter for iPhone ]

安芸毛利氏は周りで好きな人多いのであまり大きな声で言いたくないけど西軍敗北のA級戦犯は秀秋より吉川だと思ってるからこいつ本当嫌いなんだ。オメーのせいで人生狂った南宮山組始め西軍御一同に氏んでわびろ過ぎるんだよ。
6/15 1:47[ Twitter for iPhone ]

テルは渋々どころかノリノリで西軍に与したと光成準治氏は指摘。七将の三成襲撃の際テルは三成と密に連絡を取っており三成蟄居の際には涙を流した。そして関ヶ原勃発直前には信じられない早さで広島から大坂に入った。テルは打倒ヤスに積極的で、恵瓊に唆されたとは俗説で責任を恵瓊に押し付けただけ。
6/15 1:51[ Twitter for iPhone ]

白峰旬氏は小早川秀秋は開戦時から東軍で最初から西軍に攻め込んだことを確かな資料より紹介。
6/15 1:54[ Twitter for iPhone ]

大坂の陣についても諸々書いてあったけど大門の豊臣感が全く相いれないので割愛します。汚名を着せられた治長治房、として大野兄弟に言及してたけど治長が恵瓊宜しく汚れ役着せられてるのは全面同意だけれども「ところが、現在治長の評価は一変しているのではなかろうか」は言い過ぎでは。
6/15 1:59[ Twitter for iPhone ]

治長が豊臣家存続の為に腐心しており徳川家との講話にも尽力した、板倉勝重が書状で治長が不屈の精神で事を図り秀頼様の為なら悪事を働くことも辞さなかったと記している、ってそれは大変よく存じておりますけど一般的に治長そんな褒められてました…?
6/15 2:01[ Twitter for iPhone ]

ヤス派の人で淀殿と秀頼様sageのシーソーゲームで治長ageと言う意見は見るけどね…私治長も好きだけどそれ以前に秀頼様を侮辱する奴は絶対に許さないし貴様何様のつもりだこの場で叩き斬ってくれるくらいの荒々しい感情持ってるからな。
6/15 2:03[ Twitter for iPhone ]

歴史新書「消えた戦国武将とその後」。名門の落日(今川義元 / 朝倉義景 / 武田勝頼 / 足利義昭)非業の死の結末(織田信長 / 尼子勝久 / 松永久秀 / 斎藤道三 太田道灌 / 大内義隆)奇跡の復活劇(長宗我部盛親/真田信繁 / 竹中半兵衛 / 山中鹿助)。

6/15 2:13[ Twitter for iPhone ]

薄い本だし各々数ページの簡略化した内容だからへーこんな人だったのね、で終わりかも。お家断絶は負け、子孫が生き残れば勝ちみたいな考え方あるし立派なことだと思うけど、あまり遠縁の末裔の話それ程興味ないかな…。
6/15 2:17[ Twitter for iPhone ]

盛親ちゃんからは丸橋忠弥、2015蓮光寺法要の鎧の話から盛親次男(盛高か)系の系譜、伊達騒動と元親の孫の話あり。また長宗我部の先祖秦氏は嘗て太秦を本拠地としていたことから、盛親が浪人時代の潜伏地に京都を選んだのは秦氏との関係かとも問題提起。深読みでは?
6/15 2:22[ Twitter for iPhone ]

半兵衛さんは一時期大本命だったけど重門ちゃん以降は殆ど時代違う感覚。重固さんが戊辰戦争で最後まで榎本武揚と共に官軍と戦ったが維新後に領地没収云々のは垂井で聞いたことある。18代目子孫の竹中重男さんが人形師なのは知らなんだ。 http://www.kingyo-ya.com/sakka/hanbei.html
6/15 2:26[ Twitter for iPhone ]

笠谷和比古「歴史の虚像を衝く」。第1章 歴史書における年号表記の誤り。旧暦と西暦の表記の違い。閏月にも言及。第2章 関ヶ原合戦を巡る諸問題。三成襲撃事件で三成が逃げ込んだのは治部少輔屋敷。七将は清正幸長家政正則高虎長政忠興だが、他所では家政の代わりに輝政嘉明安治がいることも。

6/15 2:33[ Twitter for iPhone ]

蜂須賀家政だけが一般には無名で存在感が薄いので輝政などでは有名人に置き換えられがちと言うけれどそうなの?
6/15 2:43[ Twitter for iPhone ]

関ヶ原は徳川の圧勝だったのか。合戦後の全国的領地配置を見ると京都以西には徳川系大名が不在。殊に豊臣系大名が多く、京以西は全て外様大名としてもその8割が豊臣系大名、残り2割が島津毛利鍋島等戦国以来の旧族系大名。北陸には結城秀康がいるが加賀の前田、越後の堀秀治は豊臣系。
6/15 2:50[ Twitter for iPhone ]

会津は豊臣系の蒲生、川中島の森忠政も同様。東北は最上伊達南部と言った旧族系。日本全国は粗方外様大名で徳川系は全国の三分の一程度。関ヶ原は豊臣と徳川の政権交代と言う単純な図式ではなく、豊臣内部の問題と言うのはメジャーな考え方。
6/15 2:53[ Twitter for iPhone ]

第3章 大坂の陣をめぐる諸問題。関ヶ原後の豊臣家と秀頼様の権威的地位、ヤスの将軍任官と豊臣家と秀頼様の政治的地位、豊臣徳川の東西分有による二重公儀体制、二重公儀体制の破綻としての大坂の陣。
6/15 2:58[ Twitter for iPhone ]

関ヶ原後の政治原則は「太閤様御置目の如く」と言う言葉で表されていた。大坂城におけるヤスと豊臣家の和睦の杯事(戸田左衛門覚書)は淀殿、ヤス、秀頼様の順だった。ヤスが盃を飲み干した後、淀殿はそれを秀頼様に回すよう言ったがヤスは遠慮した。が、淀殿の強い勧めで秀頼様に回した。
6/15 3:02[ Twitter for iPhone ]

この盃事では淀殿と秀頼様が上座、ヤスが下座であった。また秀頼様の領地は西国一帯に及んでいた。大坂の陣に際して備中国奉行 小堀政一が備中国内の知行地の年貢抑留をヤスに対して指示を仰いだり、冬の陣終結後、治長の本多正純宛書状に大坂給人達の諸国における知行地年貢を元通り支給して欲しいと
6/15 3:07[ Twitter for iPhone ]

要請している事実からも分かる。家臣の知行地が主君の領地を超えて各地に広く分布する事など一般大名ではあり得ない。それは秀頼様と豊臣家の存在が一般大名を超越した存在でもることを意味する。
6/15 3:08[ Twitter for iPhone ]

また関ヶ原合戦後の領地配分に際して領地朱印状が不発給だった点。ヤスの領地配分は口頭伝達で、不満を言って来た者に対して配分を決定していた。何故領地朱印状を一気に発給して一斉に片付けなかったのか。ヤスの名前では領地朱印状は発給出来なかったと言うことだ。
6/15 3:11[ Twitter for iPhone ]

もし発給するならば秀頼様の名前をもってするしかないがそれはヤスにとって不都合なので態々迂遠な方法を取らざるを得なかった。黒田官兵衛書状「主計守 拙者事は今度切取り分 内府様取り成しを以て秀頼様より拝領仕り候様に井兵(井伊直政)仰せ談ぜられ御肝煎み存じ候、数年御等閑無きは此節に候」
6/15 3:14[ Twitter for iPhone ]

訳:清正や自分達についてこの度九州ちほの戦いで西国大名達から勝ち取った領分については、ヤスからの取り成しで秀頼様から拝領出来るようにあなた(高虎)からヤス側近の井伊直政に相談の上うまく運ぶようにご助力を頼みたく思います。数年来貴方と懇にして来たよは正にこの時の為なのです。
6/15 3:16[ Twitter for iPhone ]

伊達の秀頼様に対する認識の書状でも、秀頼様が成人した暁には武士領主の上に君臨して政権を主宰すべき存在であること、ヤスはあくまで秀頼様の補佐と言うことが自明の理として語られている。このことからも、関ヶ原後の豊臣家が一大名に転落したと言う認識は誤りであったと明確に証明出来る。
6/15 3:19[ Twitter for iPhone ]

次いで、秀頼様の関白就任は世上の諒解事項であったこと。義演准后日記、輝元書状、西笑承兌推測と言った一流資料で秀頼様関白御成の由や推測が書かれているのにも関わらず、研究者の中には「関白任官の途がなくなったことを知らない人がいるようだ」と自説にとって都合の悪い資料を、よく知らなかった
6/15 3:24[ Twitter for iPhone ]

のだろうと比定している人がいる。分かる…こーいうこと言ってる素人ヤス派歴史クラスタいるもの…。私はもう豊臣に関しては思い入れ強過ぎて宗教の域として否定出来ないしそもそもするつもりもないけど、その人達は自分達の主張が宗教って気付いてないから余計にタチ悪い。
6/15 3:27[ Twitter for iPhone ]

ヤスの将軍任官について。関ヶ原後のヤスの地位は大老としての立場を抜け出るものではなかった。ヤスはその体制から抜け出ようと新たな政治体制として将軍となった。1603年に将軍となっても政務を執っていたのは伏見城であって江戸ではない。1603時点で江戸幕府成立と言うのは明らかな間違い。
6/15 3:35[ Twitter for iPhone ]

秀頼様と千姫の婚儀の意味。ヤスは豊臣徳川共存一体化の為にこの婚儀を進めた。秀忠二代目将軍任官の意味。豊臣家が目指しているのは関白であって将軍ではない。秀忠が二代目将軍となった同じ慶長10年4月、秀頼様は右大臣に就任。秀忠が将軍になったことを機に天下人の芽が摘み取られたと言う認識は
6/15 3:39[ Twitter for iPhone ]

当時の通念とはかけ離れている。慶長11年の江戸城普請。このときの8名の普請奉行(工事管理監督官)の内、2名は秀頼様家臣の水野石見守と伏屋飛騨守だった。大坂城普請にヤスの家臣が監督官として送り込まれた事実はなく、江戸城普請への秀頼様家臣の派遣は一方的なものだった。
6/15 3:44[ Twitter for iPhone ]

慶長13年、丹波に徳川譜代の松平康重が赴任し、京より西に初めて徳川譜代が入った。此処から豊臣家包囲網が形成された。この方向転換の背景として、駿府城消失事件、豊臣徳川の険悪化がある。秀頼様が慶長13年に疱瘡にかかられた時、正則や毛利島津からも見舞いが来たが表向きは伏せられていた。
6/15 3:48[ Twitter for iPhone ]

慶長16年二条城会見。庭上の迎接作法、ヤスが庭上まで出たこと、会見場所と座配、御成の間、義直と頼信が見送ったこと。これはフレンドリーな姿勢と言うより二人の子供は人質であり、決して貴方方に危害を加えませんよと言う意味。
6/15 3:53[ Twitter for iPhone ]

徳川の発布する法令を順守することを誓う三箇条誓詞を全国の大名に出させるが、その中に秀頼様の署名がないこと。また徳川家方内部文書(老中 本多正純)の書状で秀頼様と様付けで書いていること。これは豊臣家が別格であったことを表している。
6/15 3:56[ Twitter for iPhone ]

他方、この三箇条誓詞は初めてヤスが全国の諸大名に出した法令線となる。二条城会見の後に初めて徳川が法度を出したと言うことは、逆に言うとそれまでは豊臣家の権威がそれを阻んでいたと言うこと。
6/15 3:59[ Twitter for iPhone ]

大坂の陣はどのようにして起こったのか。二重公儀体制に対するヤスの憂慮、豊臣系大名の相次ぐ死、方広寺鐘銘事件。清韓が言う通りヤスの諱は意図的に使った。諱を使うのは無礼なのでそれを咎めるのは分かる。だがそこに呪詛があると言うのはやはり不当な言いがかりではないか。
6/15 4:03[ Twitter for iPhone ]

言いがかり説については、徳富蘇峰が近世日本国民史で果たした役割が大きい。徳富蘇峰の口調は断定的で独特のクセがあり信頼度が高い上に自説を勢いよく論じるので読者は引き込まれてしまう。国家安康の四文字、これは未だに続いている歴史認識の呪縛の1つと作者は言う。
6/15 4:05[ Twitter for iPhone ]

第4章 大名改易と転封。福島正則の改易、肥後加藤家の改易、大名の転封。正則が広島城の無断修築を行っているのは間違いなく加藤家から将軍暗殺密書が出されていたの事実。結果として幕府はこの改易によって莫大な利益を得たが両事件共に幕府側から謀略を仕掛けた事実はない。
6/15 4:10[ Twitter for iPhone ]

従来改易と転封は幕府権力の大きさの証と理解されていたが、幕府は寧ろ大名改易の理由や政治的背景を諸大名に開示説明する姿勢すら取っている。改易と転封に対する従来の認識は改める必要があるだろう。
6/15 4:11[ Twitter for iPhone ]



笠谷先生や山本先生は豊臣の良心って感じするよね
劣悪で歪んだ豊臣感を見てしまって傷ついた心を癒せるのは誠の豊臣感だけだよ…
ここで言う誠とは事実よりもっと高尚な真実の話です(哲学
感心な御本を読んだので安心して眠れる気がする。
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