BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
「慶長大名物語―日出藩主木下延俊の一年」 を読みました。

「慶長大名物語―日出藩主木下延俊の一年」 二木 謙一著 を読みました。

大坂の陣の御本でも有名な安心の二木先生の御本。

国松様伝説で著名な日出藩の藩主、木下延俊の日記で、
慶長日記について分かりやすく説明&解説がされており
これを読んでおけば一通り基礎知識がつくかと。


豊臣的においしいところだけ書き残しておきます。

慶長日記こと日次記(ひなみき)がそんな最近発見されたことは知らなかったな。

「歴史人物・とっておきのウラ話: 教科書が教えない「面白い話・珍しい話・ドジな話」
(泉秀樹著)によると、日出藩主・木下延俊の日記に描かれた「慶長大名物語」は、
1986年、元子爵・木下俊瀬氏の遺品のなかから約四百年近く前の日記として見つかったのだと。

構成は、江戸の春、東海道の旅、楽しき京都、国元日出における生活、の4章。
慶長18年と言う大坂の陣を間近に控えた時期の慶長記の大名の生活を
これほど自由に生き生きと描いたものは他に類を見ない。

親友、細川忠利と稲葉典通との交友は本当に仲良さそうで羨ましい。
忠利は細川忠興の三男だが嫡子で、延俊より十歳ほど年下。
典通は稲葉貞通の子で臼杵城主、延俊より十一歳ほど年上。

江戸屋敷の普請とか駿府ではヤスが鷹狩に興じていたため数日待たされたとか、
四か月超京都に滞在したとか。
2/20に江戸を出立して、2/20に京都到着。
京都では、最初の一か月は四六時中お出かけしている延俊が
殆ど外出していないので、長らく病に臥せっていた様だ。
母親・雲昭院の来邸他、京都滞在中の親族との交流は大層頻繁だった。
4/8には延俊と浅野長晟は叔母・高台院の元を訪れている。
彼女にとっては、延俊と長晟のどちらも可愛い甥で、
かなりの豪邸に住んでいた彼女は度々土産を渡しただけでなく、
手紙に小袖、単、肌着、寝着、酒肴、瓜等を添えて届けされた。
松茸一折(五月なので夏松茸だろう)を贈ったこともあるとのこと。

故太閤への思慕の情として、豊国社の祭礼日である4/18には京都豊国社に参拝、
その後高台寺に参っている。
この日は「天気あしくあめも少しふり、かみなり」と言う悪天候であった。
秀吉様七回忌の慶長九年の臨時祭礼の賑わいぶりは特筆すべきもので、
清正正則忠興幸長らを始めとする55名の大名から供出された合計200匹にものぼる飾り馬が
建仁寺の門前から方広寺大仏までパレードを行い空前の群衆が詰めかけたものだが、
京都町衆の熱狂ぷりを江戸幕府が忌避したことにより段々下火になり、
慶長十五年の十三回忌の臨時祭ですら実に寂しいものとなっていた。
慶長十八年は更に人出が少なくなっていると思われる。
それは、この年の2/27には大坂城内に豊国社を造営し、遷宮の儀と共に京都豊国社の
神宝類をも大坂に移していたからである。
豊臣家としても、豊国社の祭礼に際して秀頼様の参詣も出来ず、
またその度毎に周囲に気兼ねをしながら奉幣使を京都へ遣わさなければならなかった事情からすれば
やむを得ないことであったと言えよう。 ←ここ寂しい;;

4/17に高台寺様が豊国明神様へ御参り候、の一文から、
高台院様までもが祭礼当日に参詣することを憚っているのおいたわしさしかない。

また、この年の夏は例年にない暑さだったそうで、
「台徳院殿御実記」慶長十八年六月二十日条にも「このごろ連日炎暑、近年まれなるところとっぞ聞えし」とある。
ここで体調を崩していた延俊も、鍼治療の効果で土用明けには回復した模様。

そして6/28に京都を出立し、淀川を下って大坂へ。
夜になってから京都を発ち、深夜に船で大坂へ向かったのは人目を避けて行こうと言う
気持ちの表れであったのかもしれない。
延俊らを乗せた船が大坂に着いたのは午前八時頃。
延俊らは宿所と定めている「万介」と言う者(塩や、とあるので塩商人か)の家に入った後、大坂城内に入った。
その日の模様については「大坂様へ御礼御申し、有楽様へ御茶湯に御出候。
外記さまも御しやうばんに御座候」として、秀頼様へ御礼の挨拶、有楽の茶湯に赴き、
弟の外記も相伴に預かったと記している。

記述は簡単で、城内の様子や対面の次第なども分からないが、
久方ぶりに見た秀頼様の御姿には驚いたであろう。

この有楽の天満屋敷の茶会については慶応義塾大学所蔵「有楽弟茶湯日記」に記載があり、
相客の相良庄兵ヱ、桑山庄左衛門(共に豊臣家臣と思われる)と共に饗応を受けた様だ。
宿書の塩屋万介宅にも多くの来客が訪れており、木下家臣や豊臣家臣が
延俊の大坂入りを聞いて顔を見に来たのだろう・。

延俊の大坂滞在はわずか一泊二日で、7/1夜には日出へ向かう船に乗り込んだ。
7/5朝、延俊は七か月ぶりの帰国を果たした。
日出では煙草の吸い比べをしたり、別府温泉に行ったり、細川忠興と交流したり。



この年の翌年が大坂冬の陣が勃発する訳で延俊自身も東軍として戦う訳だけれども、
延俊だけでなく、豊臣家に近しい人からしたらあの戦は
やり切れない気持ちが多大にあったんじゃないかと思えて仕方ないし
やるせないし只管に悲しい気持ちがする。

本編は実に生き生きとした内容であったのだけれど、読後に寂しさが残ったのはそのせいです。
関連記事

コメントの投稿

 管理者にだけ表示を許可する
Copyright © BAD END. all rights reserved.