BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
「豊臣政権の正体」を読みました。

「豊臣政権の正体」を読みました。
2014年発刊の山本 博文さん、曽根 勇二さん他の御本。

2011年の「消された秀吉の真実―徳川史観を越えて」
2013年の「偽りの秀吉像を打ち壊す」に続くシリーズ第三弾です。
秀吉様研究の最前線は大体こちらの先生方の御本を読めば良いのではないかと
絶大な信頼感抱いてます。


カバーの秀吉様肖像は大阪城天守閣蔵、狩野古右京(=狩野光信)筆のもの。
秀吉様没後ほどなくして描かれた肖像画で、晩年の秀吉様の面影を伝えた数少ない例と言える。


今回の御本のラインナップは以下。


①山本博文「豊臣秀吉と黒田官兵衛」
2014年の大河が官兵衛だったことにかこつけてのテーマか。
豊臣政権の中枢から除かれていった官兵衛は1589には隠居するものの、
毛利家との関係は保っており、関ケ原の際には長政が吉川広家を調略して味方にしている。
本論文ではこうした秀吉様の政権の在り方を考察。

②鴨川達夫「秀吉のいうさと上杉・武田のいくさーいくさはどこまで再現できるか」
戦国時代~秀吉様時代のいくさを一次史料で何処まで再現できるか。
秀吉様の戦は比較的細部まで再現出来るのに対し、戦国時代の戦いはあまり簡単ではないと言う。
鴨川氏の分析では、第四次川中島の戦いにおける妻女山、茶臼山、啄木鳥戦法、
鞭声粛々も、全ては絵空事かも知れないとのこと。

③堀新「天下と殿下」
秀吉様の書状にてんかの署名があるのはよく知られているが、これが「天下」なのか
関白殿下の「殿下」なのかは学会でも見解が分かれている
堀氏は「てんか」「てんかさま」の署名は「天下」であるとしている。
しかし一方で「てんか」「てんかさま」の署名は概ね1585閏8月~1591年8月までに収まり
それ以降は「大こう(太閤)」になることから、「天下」は「殿下」の当て字である可能性が高いとする。
そもそも「天下」の署名は北政所侍女の「いわ」宛、つまり実質的には北政所宛のみに見られることから、
内輪の署名と見られるため、秀吉様が天下と一体化していると認識していたと言う
結論を導き出すのは無理と思われる。

④田渕義樹「古文書の伝わり方―立花家文書の事例から」
各地の史料保存機関に伝わる古文書の経緯を調べる。
秀吉様が九州攻めの際の立花宗茂を「誠(まことに)九州之一(逸)物」と評した文書は
元々黒田家に伝来したが、立花家たっての望みにより黒田家から立花家に譲られたもの。
また、立花家文書には秀吉様の刀狩令と海賊禁止令が二通ずつ伝来していることが知られている。
立花家文書の中に混在している大友家文書は斐紙(雁皮紙)で裏打ちされているため、
大高檀紙の特徴が消えて大奉書のように見える。
田渕氏は、古文書は原本をたくさん見ることが重要で、その紙質や形態にも注意する必要があると言う。

⑤鈴木彰「『忠増渡海日記』と幸若舞―文芸としての「覚書」」
島津義弘に従って朝鮮に渡海した新納忠増の「渡海日記」を国文学の立場から分析する。
鈴木氏は忠増が「自らの戦場体験を回想し、それを表現する手段としてみつめ、
和歌や連歌の知識を駆使しながら自らの旅路のさまを豊かに織りなす文章力を身に着けていた」と指摘。
忠増の文章には16世紀半ばから17世紀にかけて流行した幸若舞や説教節の語り物文芸に
定型的に出現する表現があることを指摘。
同じ史料を読んでも、歴史学者と国文学者では見方が違うことに気付かされる。

⑥曽根勇二「秀吉と大名・直臣の主従関係について―いわゆる五奉行連署状の成立を中心に」
1594年7月に聚楽第御成を伝えた豊臣家四奉行連署状を手掛かりに、
同年における「固定メンバー」により奉行衆連署状の出現と、同年における
畿内検地、秀吉様直臣団への知行宛行を統一的に捉えることを論じている。

⑦金子拓「豊臣秀次朱印状の謎」
秀次の朱印状は秀吉様同様の大高檀紙に書かれ、秀吉様の印章よりも一回り大きい
「豊臣秀次」と刻まれた印章が使用されている。
秀次朱印状は朝鮮へ出陣した大名への在陣見舞いが中心をなしているが、
その文言は微妙に異なっている。
同じ右筆が書いた文書でも、文書ごとに「その時に応じた融通無碍な文字、表現の選択」が
行われていた可能性がある。
また秀次の在陣見舞いが「個々の大名がどのような状況の中で戦っているのかとは無関係に
遠い世界の出来事であるかのごとく一斉に書かれ」たことに、
最高司令官、主君として発給された秀吉様の朱印状との違いがある。

⑧光成準治「日用停止令と豊臣政権」
秀吉様は、諸国の百姓などが武士奉公に出ること=日用(ひよう)を召し抱えることを禁止した。
この法令は検地や刀狩令等と並んで重要なものであるにも拘らず、その年次も未だ諸説あるのが現状である。
光成氏は、これが1595年の豊臣秀保と秀次の没後、その領地を知行する大名、給人に対し
翌1586年の2月に発給されたものではないかと推定。
「日用停止令」は文禄の役における奉公人の大量徴発によって、農村に耕作する者が減少し、
疲弊したことから取られた措置と見ることが出来る。
一方、山本博文氏は、この法令を1591年8月21日付の秀吉様朱印状(「定」、いわゆる身分法令)の
延長線上にあるものと見る。
また、山本氏は「人払令」は1592年正月日付け豊臣秀次朱印状(「條々」)そのものと考える。

⑨矢部健太郎「前田玄以の呼称と血判起請文―「民部卿法印」から「徳善院僧正」へ」
玄以の呼称は「民部卿法印」から「徳善院僧正」へ変化する。
矢部氏はその時期を1596年5月だと確定している。
ところが秀吉様直轄地の算用について、玄以と長盛と正家が連署した1595年8月3日付の
起請文前書に「徳善院玄以」の署名がある。
矢部氏はこの起請文は玄以が「徳善院」を称した1596年5月5日以降に作成されたものでありながら、
日付を1595年(文禄四年)8月3日に遡及させたものと推測している。
そしてこの日が秀吉様の「御掟」「御掟追加」が発給された日付と同じことに注目し、
この起請文がそれと同日に出されたことにしてアピール度を増したものとする。
そして1596年5月に作成された意味を、秀頼様が初上洛・初参内し、伏見城惣礼まどの行事があったこと、
即ち秀吉様から秀頼様への「豊臣政権の代替わり」だったことに求めている。
秀吉様直轄地の算用についての起請文が、意図的に日付を改変しなければならないほど
重要だったかは疑問が残るが、今後検討が必要な事例と見える。

⑩米谷均「豊臣秀吉の「日本国王」冊封の意義」
1593年5月、秀吉様が肥前名護屋城で明使に七項目の要求を突きつけたことに始まる
日明講和交渉は1595年12月、小西行長と沈惟敬によって仕立て上げられた内藤如安らの
「降伏使節」が北京に到着したことにより、実現の可能性が出て来る
如安は冊封希望者リストを提出し、明はそれを大幅に変更し冊封を行っている。
秀吉様だけでなく、その臣下までもが冊封を受けていることは注目すべき事実で、
これは日本史においても稀有な事例と言える。
明は秀吉様の冊封は許可するが貿易は拒否している。
北京を出発した冊封使は1596年9月1日、大坂城で秀吉様に謁見。
「太閤は満面の笑みを浮かべ、金印を持って衣冠を着し、万歳三唱した」と言う
景轍玄蘇 の「柳川調信画像賛」の記述はイエズス会の日本年報の記事とも符合しているので
概ねそのようだったと見ても良い。
冊封を受けた秀吉様が怒って書類を破り捨てたと言う頼山陽の作り話は真っ赤な嘘で、
この時の文書は大阪歴史博物館に伝存しており、実際に秀吉様は喜んでいる。
これは秀吉様にとって「紛うことなき戦利品」だった。

⑪堀越祐一「豊臣五大老の実像」
五大老が発給した111通の文書を分析し、五大老はあくまで秀吉様の跡取りとしての
秀頼様が行う政務を代行しただけと指摘。
また、堀越氏はこの五大老の前史として東国はヤス、西国はテルと言う東西委任体制があったことを指摘。
これは1595年の秀次事件後、ヤスとテル、そして小早川隆景に提出させた起請文で実証されている。
そしてこの体制は1598年8月段階の秀吉様の遺言で、東国はヤス、西国はテル、畿内は五奉行が
守ると言うかたちに発展していく。
ここで出て来る利家は、弟秀長の死後、ヤスの対抗馬として官位を引き上げられている。






個人的なお勧めは「豊臣秀次朱印状の謎」、
「前田玄以の呼称と血判起請文―「民部卿法印」から「徳善院僧正」へ」
「豊臣秀吉の「日本国王」冊封の意義」、「豊臣五大老の実像」です。

秀頼様に関連しているとどうしても興味のふり幅そっちに行ってしまうんだ。
秀次朱印状の箇所では勝永への礼状についても言及されててフフッってなった。



「豊臣秀吉の「日本国王」冊封の意義」が面白かったので特筆。
ここには、秀吉様臣下の受封者の変動が載っていました。
日本側の冊封希望者リスト(「小西飛稟帖」『経路復国要編』後附)では、

日本国王…秀吉様、日本国王妃…豊臣氏(北政所)、神童世子…嫡子(秀頼様)、
大都督…小西行長、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家
都督…豊臣秀次
亜都督…徳川家康、前田利家、羽柴秀保、小早川秀俊(秀秋)、蒲生氏郷、毛利輝元、
平国保、小早川隆景、有馬晴信、宗義智
都督指揮…前田玄以、毛利吉成、長束正家、寺沢正成、施薬院全宗、柳川調信、
木下吉隆、石田正澄、源家次、平行親(小西主殿介か)、小西末郷(小西美作行重)
※以下多数略

右の希望リストは行長や朝鮮三奉行(三成、長盛、吉継)にn近しい人物が
かなり依怙贔屓されていることが特徴で、特に秀次が行長らより下の地位に据え置かれ、
秀吉様の「世子」から外されていること、所謂五大老らが行長グループより二段階下にいること、
清正、正則、鍋島直茂、黒田長政ら行長と敵対ないし疎遠な派閥関係者らは
候補リストから除外されている一方、行長の重臣(小西末郷)や三成の兄の縁故者の
記載があるもの興味深い。さ、流石行長ダヨネー。

一方、1595年正月12日、兵部尚書の石星(せきせい)は1571年のアルタン・ハン冊封時に
その頭目たちにも授職した先例を援用し秀吉様臣下たちへの授職を題奏して裁下を得た。
(「石星題奏」『明神宗実録』万暦二十三年正月乙酉条/談遷『国榷』七七、同年同月同日条)

日本国王…豊臣秀吉
都督僉事<正二品>…小西行長、宇喜多秀家、増田長盛、石田三成、大谷吉継、徳川家康、毛利輝元、羽柴秀保
日本禅師…景轍玄蘇(衣帽下賜)
褒章下賜…内藤如安(この前後に都指揮使(としきし)<正二品>授与)

このように、明側の決定では行長・三成グループとヤス・テルグループを同一の都督僉事(ととくせんじ)に授職している。
ここで目を引くのが、「小西飛稟帖」で挙げられた多数の授職希望者がバッサリ削られていることで、
前田利家すら脱落していることから恐らく日本側から抗議がなされたのでしょう、
1595年正月21日付の万暦帝の詔書においては最終的な冊封対象者は以下の通りで決定された。
(「万暦帝詔書」『江雲随筆』建仁寺蔵本謄写本、東京大学史料編纂所所蔵)

日本国王…豊臣秀吉
右都督<正一品>…徳川家康
都督同知<従一品>…前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、羽柴秀保、小早川隆景、上杉景勝、増田長盛
都督僉事<正二品>…石田三成、大谷吉継、前田玄以、長束正家、施薬院全宗、小西如清、石田正澄、小西行長
日本本光禅師…景轍玄蘇(「万暦帝詔書」には名前を欠くも、兵部箚付の模本が伝来)


周知のように、この講和は1597年9月2日に儚く消え去り、日本への朝鮮南部割譲を承認するどころか
朝鮮からの倭城撤去と完全撤兵こそが明の意向であることを冊封使から告げられ、
秀吉様が激怒して来年の再出兵を通告することとなる。
ここで、本書は面妖な文書として宣祖二十九年(1596年)十二月己巳(7日)の秀吉様謝恩表を取り上げる。
この謝恩表は徳富蘇峰が全文引用して偽作と断定して以来、石原道博を除いて
まともに論考対象とされたことがなかった(朝鮮側官人も「文体が中国風で信じがたい」を言っている)が、
これも沈惟敬らの全くの偽造文書かと言われるとそうでもない状況証拠もあるとする。
「日本国王」印ではなく「豊臣」印を押してあるのは、当初印章が押されていないので正成らが可能性があること、
表号が干支表記であることから起草者は日本人であると示唆されることなど。



この本が2014年と言うことは、今年辺り第四弾出ても良いのではないでしょうかね。
このシリーズは読み応えがあるのに簡潔で分かりやすいし、本当にお勧めです。
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