BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
最近読んだ本。
最近読んだ二冊。


①「最後の戦国合戦「小田原の陣」 」
中田 正光著。
丸では散々籠城側に感情移入してたけど本だとフツーに豊臣視点で読んでた。
城と民衆をテーマに、この戦いを「最後の戦国合戦」と銘打っているけれど
戦国時代の終焉は小田原ではないだろと大坂厨は異論を唱えており。



②「おれは権現」
司馬 遼太郎著。安心のしばりょ小説です。
お目当ては「覚兵衛物語」(飯田覚兵衛)と「若江堤の霧」(木村重成)、
次点で好きになったのが「けろりの道頓」(今井道頓)。
私の中の清正ブームが留まるところを知らないんですが、
第三者目線の清正良いなあと思ったり。






一冊ずつ書きます。


①「最後の戦国合戦「小田原の陣」 」。
「北条氏は、なぜ籠城戦で滅亡したのか?」と言うサブタイトルがある割に、
その理由をは明言していなかったような。
終章の「「自力・自治」の敗北と「惣無事」の勝利」で、総括的なまとめはあるけれども
それが答えになっているかと言うと疑問符…私の読みが浅いからかも知れないけど。

秀吉様との駆け引き、臣従か対決か、城郭を巡る民衆の戦い、「劇場化」する天下人の戦い、
と言うのが各章のタイトル。
丸で北条戦やってたのが割と最近なこともあり、あああったなーと思いながら読んだ。

興味深かったのは忍城と水攻めのところかな。

忍城戦に関して、秀吉様の書状において水攻めに言及していないことから、
7/5には「当方(豊臣軍)の軍勢が忍城において手傷を負い、その人数が大勢であった」(浅野文書)と
あるので、城攻めが行われたことは確かだが水攻めの記述はない。
この日、小田原城は開城している。
7/6秀吉様書状には、氏政、氏照、大道寺、松田の四人を切腹させる予定であることが述べられ、
水攻めの土手構築を急がせた上で、7/14、15頃には構築の様子を見たいと言って来た(上杉文書)
ことから、7/5の忍城攻めは水攻めではなかったことが分かる。
また、7/12の秀吉様書状には氏政と氏照の首を刎ね、その首を京へ送ったことは述べられているが、
水攻めに関しては出て来ない。(「諸将感状下知状」)
秀吉様が織田信雄に宛てた7/14の書状でも、忍城を攻め崩したことだけで、
肝心な水攻めについては一言も触れていない。(浅野文書)
水攻めの記録が文書から確認出来ないと言うことは、堤の構築が未完成だった可能性がある。
秀吉様が最も演出したかった筈の水攻めに本人が全く触れていないこと、
他の文書からもそれに関する記述がないこっとから、秀吉様の描いていた
「太刀も刀もいらず水をくれ候」は最終的に成就しなかった可能性がある。
水攻めがあったとする「忍城戦記」は成田氏長の重臣・正木丹波守の武勇を記すための記録で
あると言う性格から、その活躍を記すために水攻めの記事が必要だったのだろうと筆者は推測する。
通説のお蔭で戦下手のイメージついてしまった三成可哀想だな…。





②「おれは権現」は7編の短編集。
どのお話も生き生きと魅力的だったけど、特に元々その関連武将が好きだったり
大坂の陣出て来ると途端に愛着が湧く。

「愛染明王」は福島正則の話。
無双ではすっかり愛され馬鹿キャラになってしまっているけれども
この小説にもそのキャラクター性の片鱗感じられた。
「家臣の中には狂信的な正則信者と言うべき家臣が多く、このため戦場では彼の部隊が最も強かった。
将の器と言っても良い。清正は軍人としても民政化としても優れていたが、
全て自分でやらねば気が済まないたちで、このため大大名になってからも
家老や奉行と言った職を置かず、独裁制であった。
正則の場合、強烈な性格の持ち主のくせに、いざ大名になって領土を行政する立場になると
みごとな秩序をつくった。」
この説明、清正と正則の違いをよく表しているよなあ。
表題の愛染明王は、正則の遺骸が焼かれた後、荼毘所の朽ち果てた後に
誰かがその場所に愛染明王を置いたとするところから。(フィクションでしょうが)
忿怒暴悪の表情を持ち、しかも内面は愛憐の情を湛えると言う愛染明王を、
正則と似ているとする。

「おれは権現」は可児才蔵の話。
彼は心底から自分は人間ではないと思い込んでいる節があり、
山城愛宕の勝軍地蔵が人間の姿に現じてこの世に現れていると信じている。
「わしは愛宕の勝軍地蔵の縁日である二十四日に死ぬるぞ」。
その実、彼は明智光秀が召し放った臆病者であったが、
山伏との約束で、勇名世に隠れなき戦上手になったと言う不思議設定。

「助平衛物語」は花房助兵衛の話。
宇喜多秀家の家臣、花房助平衛は秀吉様にも、主である秀家にも、大口を叩く程の豪の者。
晋州城戦では後藤又兵衛の陣で見た亀甲船を真似して作り、一番槍を得ようとする。
その日、諸将はくじによって攻め口を決め、又兵衛の後ろには助兵衛が懸命にとりついて来ている。
又兵衛の槍に飛びつき、一番乗りを得ようとした助兵衛だが、
既にその時には加藤清正の先手組の大将、森本儀太夫と飯田覚兵衛ら諸兵が城内の敵を切り崩していた。
関ケ原の折り、ヤスに情勢観測を誓詞に書けと言われ、むっとして書かなかったことで、
ヤスは助兵衛を大名の器ではないと認識し、助兵衛は後にその話を聞き、
剛直なために力以上に世に買いかぶられはしたが、自らの限界を自覚し悔しがった。
そして大坂の陣。助兵衛は、その頃既に人の手を借りねば身も起こせぬ状態になっていたが、
輿の上に布団を重ね、戦場に出て、ヤスに目見えした。

「覚兵衛物語」は飯田覚兵衛の話。
覚兵衛は今は加藤家老中の立場ではあるが、元は山城山崎の百姓の子で、名をサイ八と言った。
同じ家老の森本儀大夫は力士と言う名で、隣同士に住み、一緒に角力(すもう)を取ったり、喧嘩等をしていた。
八つの春、村に夜叉若と言う少年がやって来た。
夜叉若は同年代のサイ八、力士より首一つ丈が高く、角力も強かった。
三人は党を組み、隣村の子供たちに喧嘩をしかけて打ち負かすような悪童になった。
ある日、夜叉若は更に提案した。
それは、角力、棒打の試合で勝った者が大将になり、負けた者が修正家来になると言うもの。
結局、夜叉若が大将となったが、それから間もなく、永禄二年九月半ば、
夜叉若の母親は我が子を侍にすべく長浜城下の羽柴へとやった。
15になり、夜叉若は加藤虎之助清正と名を変え、山崎村にサイ八と力士に会いに来た。
あの日の約束通り、自分の家臣になって欲しいと。
力士は頷いたが、サイ八は風雅の道に行きたいと思っていたため断った。
だが、清正が良い主人にはなれないかも知れぬが、苦楽を共にしたい、と
地に折り敷いて軽く頭を下げたのを見て、サイ八は清正の家臣となることを決める。
清正は昔から何かと人を使うのが上手で、いつも覚兵衛の顔色を読み、
言葉でおだてたり、金品をくれたりした。その度に覚兵衛はつい気勢を張り功名を立てた。
覚兵衛は何かとすぐにやめるやめると言うのが口癖であったが、
清正は覚兵衛がやめると言うのが怖かったのだろう。
臨終の際、自分が死後も嗣子忠広をよしなに頼む、と言った清正。
だが、忠広は清正に似ず性暗愚で二人の老臣の諫言を好まなかった。
覚兵衛はあの約束は一代限りのものとして、加藤家を辞し、余生を隠棲して過ごすこととした。
それから間もなく加藤家は幕府から謀反の疑いを受け、54万石を没収の上取り潰されている。
覚兵衛はその噂を聞いた時、彼の生涯唯一の作品である加藤家が空に帰したこtで、
自分の一生とは何であったか、突きあげて来る虚しさに号泣したと言う。

「若江堤の霧」は木村重成の物語。
当時無名だった重成が、人々に残した儚さや美しさを記した物語。
治長が大坂防衛の決戦部隊を七個軍団に分け、それぞれに上将を置き、
その七人の将をもって最高軍議にも参画せしめるとする。
五人まではもう決まっている、として名があげられるのが五人衆で、
譜代衆がいないことから譜代から二人、として主馬と重成を選ぶと言う流れ。
重成の物語はその若さも相まって芳しく瑞々しく美しくて悲しい。

「信九郎物語」…長曾我部信九郎の話。
長曾我部元親の最晩年の落胤である信九郎康豊。
その出生の秘密を知ったのは、16の元服の頃だった。
長宗我部の血流は盛親に子がいないため、盛親とその庶弟である信九郎の他にはこの世に存在しなかった。
そのため、盛親に万が一の時は家を継げるのは信九郎様だけだと述べる長曾我部家の旧臣。
外祖父の弥太郎は信九郎が長曾我部旧臣と繋がりを持つのを好まなかった。
また、信九郎も自分の出生にそれ程の関心を持たなかった。
十八の夜、祖父と母とがふすまの向こうで信九郎を寺にやるか、作男にするかと言う話をしているのを聞いた。
どちらも嫌であった。信九郎は侍になろうと決めた。
祖父の弥太郎は信九郎を毎日飽きもせず叱りつけ、叔父の弥市とその子弥兵衛は白い眼で見るだけで何も言わなかった。
この家のしきたりでは朝夕の食膳は叔父と従兄だけが板敷の上で食べ、
信九郎を始め叔父の下男や女どもは土間で立ち食いさせられることになっていた。
既に大名の夢を見始めている信九郎にはこれは耐え難い屈辱だった。
ある日、日暮れてから帰った時、既に土間が片付けられ飯が何も残っていないことがあった。
弥兵衛は「牛でも働く。働けば食わせる。」「牛よりも劣る」と豪語した。
信九郎は涙があふれ、夜に床に入っても涙が止まらず、空腹は怒りを陰鬱なものにした。
慶長十八年の夏、母が死に、秋には祖父弥太郎が死んだ。
信九郎はこの家では全くの孤独になった。
かれらは、ただ一つの希望として乱を待ち望んでいた。
そして、時が来た。大野治長の家来、平戸甚兵衛の誘いに頷く信九郎。
ただ、大坂に入っても、信九郎は常に孤独だった。土佐人は土佐人だけで常に固まっており、
信九郎は自分の家来である六人のほろほろたちとばかり話をした。
信九郎とその六人の家来たちは長曾我部勢の中でも異質な存在だった。
盛親も、肉親とは言え弟ではなく家来のように信九郎を扱った。
その後、盛親は捕まり斬首されたが、信九郎は駿河にて知行五千石の城代家老となった。

「けろりの道頓」…今井道頓(安井道頓)の話。
六尺近い大男、その名をけろりの道頓。
秀吉様に声をかけられた際に、最もお気に入りのおなご・お藻を差し出すこととなる。
道頓はお藻を愛していると見えたが、すぐに諦めたらしく、けろりとした顔に戻った。
安井道頓自身の事歴について、これは実の処殆ど分かっていない。
けろり、と言うのは、病気などの早く治って跡形もない様、そのことに関係ない様、
注意の散漫な様、平気な様、と言った意味がある。道頓の場合はどうだったのであろうか。
道頓は摂津の言葉で言う所謂「気儘人」だった。
人の世に慾がなく、顔相が巨大で、いつも何を考えているか見当がつかない。
ある日、太閤からお藻の御礼を思われる鯉が届いた。
端から見ると、お藻がいなくなってから、道頓はお藻のことを一言も話さず、忘れているかのように見えた。
ただ、彼女がいる頃は大抵昼寝の時にお藻を添寝させていたのにも拘らず、
彼女がいなくなってからは、誰にも昼伽をさせず、一人で寝るようになっていた。
それから数年後、太閤から、道頓は大坂市中の水運を便を担う、堀の普請を命じられる。
秀吉様の死後、堀の普請は思うように進まなかった。
中央政権は政局の調整に忙しく、それどころではなくなっていた。
また、関ケ原の戦いにて豊臣家が凋落すると、道頓は私費で堀の開拓を進めることとなった。
そして迎えた大坂の陣。
「豊公には恩義がある」と言う一言で大坂城入城を決めた道頓。
そして「お藻が死んだお城なら悪い場所ではあるまい」と。
道頓は高齢ゆえに野戦には加わらず、落城とともに火に巻かれて生涯を終えた。
齢70とも、80とも言う。
乱後、徳川治下の初代大坂城主になった松平忠明は、大坂再興の第一着手として、
道頓の掘り散らした堀を完成させることを考え、道ト(道頓の従弟)と平野藤次をよんで請け負わせた。
竣工後、堀の名を道頓堀と名付けた。




最後が安井道頓の話なの本当にしんみりする…;;
どれも魅力的なキャラクターと物語なんだけど大坂の陣で〆るのずるいよお
信九郎の話もじんわり来たし、勿論覚兵衛や重成のお話も大好きだしで、
しばりょせんせー豊臣兵に優しいから好き;;
久しぶりに小説読んだ気がするけどやっぱり面白いな
昔読んだことあるやつでも感想書いていないの多いので再読したいものです。
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