BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
DATE: 2016/09/04(日)   CATEGORY: 美術館・博物館
高槻市しろあと歴史館「北摂の豊臣武将 郡主馬~大坂の陣と高槻」を見て来ました。
高槻市しろあと歴史館「北摂の豊臣武将 郡主馬~大坂の陣と高槻」を見て来ました。
溢れる主馬愛を感じた。

郡主馬が主役になる展示など、ウン十年生きて一回巡りあえるかどうかじゃあないかと
一人で感激しては絶対行きたいとやきもきしていたのですが、
終了直前ではありますが無事に見に行けて本当に嬉しかった。
地元だからこその着眼点、綿密で丁寧な下調べ、親切で分かりやすい解説、
構成も展示方法も何もかも大変非常に充実しており、文句なしに素晴らしい展示でした。



ツイログ。


<9/3>
郡主馬展。荒木村重敗北後、羽柴秀吉家臣となる。黒田官兵衛の口利きがあったと言う。黄母衣衆に任命され、三千石が与えられ築城の差配や大名達との連絡役を果たした。
9/3 14:10[ Twitter for iPhone ]

郡兵太夫正信蔵。白井河原の戦いで奮戦した郡兵太夫の武功を強調する。七世の孫である郡正道が写した、とあるので18世紀頃の作品と思われる。
9/3 14:11[ Twitter for iPhone ]

メインのポスターにもなっている郡主馬像。高槻藩士郡家に伝わる。背後には楠木正成が使用した菊水の旗。郡氏は奈良時代の皇族、公卿である橘諸兄の後裔と伝わる。同じ橘姓の楠木氏と近い関係にあり、豊臣家に準じた主馬を正成を重ねたのかも知れない。
9/3 14:14[ Twitter for iPhone ]

主馬は1597、豊臣宗保として従五位下となる。1607年には秀頼様家臣として他の7名の秀頼様家臣と共に、真田信幸にヤスの江戸城普請への参加を伝えている。(真田家文書、真田宝物館蔵)
9/3 14:16[ Twitter for iPhone ]

浮世絵 細川忠興室。忠興には郡主馬の娘も嫁いでおり女子を産んでいる。
9/3 14:17[ Twitter for iPhone ]

芥川村文禄検地帳。芥川の太閤検地は片桐且元が担当奉行。且元花押あり。 郡家村文禄検地帳。軍家村の太閤検地は速水守久が担当奉行。
9/3 14:18[ Twitter for iPhone ]

黒田家譜。福岡藩が黒田家の歴史を編纂し、儒学者貝原益軒が著した歴史書。事実と異なる部分もあるが郡主馬と黒田官兵衛、長政とは縁が深く、福岡藩士に主馬の子孫がいる。ここでは「七組之頭は郡主馬首」と記される。
9/3 14:20[ Twitter for iPhone ]

大坂冬陣御陣覚書。大坂御陣覚書の一つ。郡主馬が七手組として且元に意見を加えている。 大坂古城之図。千成瓢箪横の「ハタ奉行 郡主馬之助」が目立ち、主馬の高名ぷりが伺える。当館、府立中之島図書館の二枚と計3枚の冬の陣図を展示。
9/3 14:24[ Twitter for iPhone ]

摂州大坂軍記。1677頃に成立した大坂御陣覚書の一つでほぼ内容は同一。冬の陣の和睦で誓紙にヤスが花押を添えるのを常高院、木村重成、郡主馬が確認する場面を展示。
9/3 14:25[ Twitter for iPhone ]

大坂夏の陣図。府立中之島図書館蔵を3枚。大坂城~国分峠や生駒山も見える。盛親ゆかりの常光寺に同様の絵図が伝わる。二枚目は天王寺、堺まで、道明寺、若江をクローズアップ。三枚目は「七日 摂河 平野 亀井 岡山 南門 庚申堂 五戦図」の題名。大和川が流れる国分峠の山から大坂城を描く。
9/3 14:31[ Twitter for iPhone ]

難波戦記は主馬が冬の陣の和睦の際ヤスの元へ赴いたこと、夏の陣での切腹を描く。おきく物語。おきくは落ちていた豊臣家の金の馬印に驚き打ち割る。後に聞いたこととして馬印を預かる津川左近の自害、御旗奉行の郡主馬が豊臣家旗本の名誉として背につける黄母衣を返上し自害した話を載せる。
9/3 14:34[ Twitter for iPhone ]

大坂夏御陣覚書。1677頃成立の大坂御陣覚書の一つ。郡主馬が若き出頭人らに引き止められ、冬の陣で天王寺に藤堂軍を追い詰めた時に決行しなかった夜討ちを悔やむ。そして脇差を黒田長政に渡すように頼み、大坂城千畳敷で息子の平蔵と切腹を遂げる。
9/3 14:36[ Twitter for iPhone ]

大坂物語。上下2巻。上巻は秀吉様没後の豊臣家と徳川家の緊張や冬の陣の様子。下巻は夏の陣と豊臣家の滅亡について。最も古いものは夏の陣から間もなく刊行。下巻の挿絵には燃え盛る城内で兜を横に置きもろ肌を脱いで切腹する老兵郡主馬の姿が描かれる。
9/3 14:38[ Twitter for iPhone ]

常山紀談。18世紀中頃の戦国武将逸話集。「郡主馬が事」と言う話がある。大坂城では三成が味方を増やすために金銀を配っていた。主馬も受け取って謝したが蔵に返した。これはいらぬ禍を避ける為であり以降の主馬は病と称し出仕を取りやめたとある。
9/3 14:40[ Twitter for iPhone ]

主馬の子孫は懇意であった筑前福岡藩黒田家、筑後久留米藩有馬家などで藩士になった。地元では郡村の庄屋、高槻藩士としても郡氏は活躍した。福岡久留米高槻の各藩士家や庄屋の郡一族は江戸時代にもやり取りがあったと言う。加賀前田家には高山右近旧臣であった郡氏がいた。
9/3 14:42[ Twitter for iPhone ]

高槻城主となった永井直清の小袴。無二無三の旗(高槻藩士 澤路家に伝わる永井家の「一文字三星紋」に「さわじぶひょうえ」「無二無三」と記す)、永井直清が大坂の陣で着用した伊予札黒糸威胴丸具足。直清は秀忠配下で大坂の陣が初陣。
9/3 14:45[ Twitter for iPhone ]

高槻村元和検地帳。土岐定義は大坂の陣二年後の1617に2万石で高槻城主となる。この年幕府は高槻城、明石城、大坂城で大改修を実施。
9/3 14:47[ Twitter for iPhone ]

色々威二枚胴具足。1640に高槻城主となった松平康信所用。康信の父、松平家信は1619に高槻城主。冬の陣に参加し夏の陣では代わりに康信を参陣させていた。
9/3 14:49[ Twitter for iPhone ]

一番最初のとこ書き損ねてたから戻る。
9/3 14:49[ Twitter for iPhone ]

郡主馬は摂津西部の国人 伊丹氏の出身で伊丹甚十郎と名乗った。母が郡氏の娘で郡兵太夫の養子として郡十右衛門と改名し、名は宗保、良列(よしつら)とする書物もある。伊丹氏を滅ぼした荒木村重配下となり1578信長から離反した村重が有岡城に籠城すると主馬も参加した。
9/3 14:52[ Twitter for iPhone ]

郡氏由緒書。郡主馬子孫である高槻藩士郡家に伝来。前半に義父郡兵太夫と白井河原の合戦、後半に覚書として郡主馬の事績を記し、名を良列、法名を宗保とする。白井河原の合戦を1571でなく1573と記すが他の記録でも同様の誤りがあるものが見られる。
9/3 14:55[ Twitter for iPhone ]

郡家家系図。郡左京亮正則に始まり、兵太夫正信、主馬と続く。郡正則は永正年間(1504~1511)に泉原蒲山城主だったとする。蒲山城とは不詳だが五ヶ所を領したとあるため泉原(茨木市)を含む広範囲に影響を持つ人物だったのかもしれない。
9/3 14:57[ Twitter for iPhone ]

主馬年表。1545生まれ。1571白井河原の合戦で義父 郡兵太夫戦死。1574荒木村重が伊丹氏を滅ぼし有岡城に移る。伊丹十右衛門から母方の郡姓に改めていた主馬は村重家臣になる。1578村重が信長から離反。有岡城に籠城戦に主馬も参加。黒田官兵衛幽閉。
9/3 15:01[ Twitter for iPhone ]

主馬はこの時に官兵衛の世話をした加藤又左衛門の妻の兄にあたる。1579有岡城落城。主馬は(一説には官兵衛の口利きで)秀吉様に仕える。この時に伊丹姓を郡姓に改めたとも。後に黄母衣衆に抜擢される。1582山崎の戦いで兜首を二つ取る。
9/3 15:04[ Twitter for iPhone ]

1583賤ヶ岳の戦い。秀吉様に賞賛される。1584小牧長久手の前、美濃尾張方面に布陣、敵方の偵察を秀吉様に報告。小牧長久手の戦いでは秀吉様使者として岸和田城の中村一氏に遣わされており合戦は不参加。1587聚楽第で使用する石材調達に関わり郡十右衛門と署名。九州出兵に従軍。
9/3 15:07[ Twitter for iPhone ]

1590秀吉様の毛利輝元邸への御成に随行。公家の中山親綱の配膳をつとめる。名は郡十右衛門尉。小田原攻めに参加。山中城攻めで首を取る。陣後、美濃国可児郡で1300石加増。3000石の知行。九州四国との連絡役も務める。1592秀吉様旗本として肥前名護屋在陣。
9/3 15:10[ Twitter for iPhone ]

1593鍋島直茂、松浦鎮信らが使用する朝鮮からの船に肥前名護屋で兵糧を積むことを命じる使者を務める。1594郡十右衛門が秀吉様が大坂に戻ったことを注進する。1597豊臣宗保として従五位下、主馬首となる。1600関ヶ原直前、輝元の西軍に属し大津城攻めに参加。京町口を受け持つ。
9/3 15:12[ Twitter for iPhone ]

1603伏見の古田織部茶会に客として参加。1607秀頼様家臣として江戸城普請を真田信幸に伝える。1608豊国社神宮寺の社僧 梵舜が大坂城へ登城したが秀頼様は体調が悪く取次の安威摂津守と郡主馬に面会した。
9/3 15:16[ Twitter for iPhone ]

1611徳川将軍家による御所修築に参加した大坂衆の内二千石の知行として郡主馬の名がある。有楽の茶会に黒田長政らと共に郡主馬の名がある。1614主馬は秀頼様の江戸参勤などの条件を飲むべきとして豊臣方から嫌疑を受ける。旗本衆七手組として屋敷に篭った且元を説得する。
9/3 15:18[ Twitter for iPhone ]

黒田長政が秀頼様に梨などを贈った際、主馬に披露を依頼する。(郡文書(筑前)出典)中島地域の百姓が豊臣方になるように庄屋達から起請文を取る役割を主馬が実施。旗奉行を務める。大坂衆三の丸に布陣。冬の陣の講話の際、血判を取る為に重成らと共に茶臼山に派遣される。
9/3 15:20[ Twitter for iPhone ]

1615夏の陣に際して郡主馬から郡和泉守に名乗りを変えたと言う。天王寺黒門を守備したが城内に戻り、本丸千畳敷で黄母衣を床に置き切腹。子の平蔵も切腹。家来に懇意とする黒田長政に短刀を渡し、後に有馬豊氏、寺沢広高、そして自分の婿達に最後を語るよう託した。
9/3 15:23[ Twitter for iPhone ]

また主馬は秀頼様馬印を持って城外へ出陣したと言う。享年71。73とする説もある。
9/3 15:24[ Twitter for iPhone ]

典拠。1545郡家家系図、宗保家伝(郡宗保伝記集成)、1571郡氏由緒書、1574自笑居士覚書(郡宗保伝記集成)、1578自笑居士覚書、宗保家伝黒田家譜、1579宗保家伝、郡重保ノ伝書、1582自笑居士覚書、1583宗保家伝、1584宗保家伝、1587金戒光明寺文書、自笑居士覚書
9/3 15:28[ Twitter for iPhone ]

1590御成日記之事(毛利家文書)、自笑居士覚書、郡家家系図、1592自笑居士覚書、1593岡本文書、1594駒井日記、1597柳原家記録、1600自笑居士覚書、1603織部茶書、1607真田家文書、1608舜旧記、1611禁裏御普請帳、有楽亭茶湯日記
9/3 15:30[ Twitter for iPhone ]

1614自笑居士覚書、大坂御陣覚書、郡文書(筑前)、沢田家文書、大坂古城之絵図、おきく物語など、宗保家伝、大坂御陣覚書など。1615宗保家伝、自笑居士覚書、大坂御陣覚書など、綿考輯録。
9/3 15:32[ Twitter for iPhone ]

13:44に着いてるのにこの時間だw郡主馬の企画展が図録ない上に充実し過ぎてな…!
9/3 15:35[ Twitter for iPhone ]

常設展見たら予想以上に高山右近が多かった。右近は署名を寿子、寿須、重出、などジュストの当て字で記すので古文書からは未だ右近の名前を知る事は出来ないとか。右近は21歳から13年間高槻城主だった。伴天連追放令でも棄教せず、大名の地位を失い南坊、等伯と称するようになる。
9/3 15:51[ Twitter for iPhone ]

郡主馬良過ぎてアンケート熱く書いてきた…有難うございました!!
9/3 16:08[ Twitter for iPhone ]

http://www.city.takatsuki.osaka.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/11/koho16070156.pdf 郡主馬の宣伝パンフ。
9/3 22:46[ モバツイsmart / www.movatwi.jp ]




この歴史館出る時に、受付の方にゆっくり見て下さって有難うございます、って言われて
正直恥ずかしかったけどそれくらい素晴らしかったってことだよ。

当たり前のことかもしれないけれど、一人の人物の足跡を辿ろうと思ったら
これくらい郷土史や家譜その他関連人物の関連書籍を地道にこつこつと
調べないといけないんだなと身に染みて感じた。
この企画展を企画した方、また協力された方は(安っぽい言い方をすると)
郡主馬のことを大好きなのでは?私が勝手に主馬愛を感じただけ?

秋には三週連続で豊臣関連の講演会も企画されているしもう高槻市に足向けて寝れない…
西は極楽がある方向だものな 理解した。
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