BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
DATE: 2016/09/10(土)   CATEGORY: その他イベント
(9/10)福田千鶴先生の講演会「豊臣秀頼」を聴講して来ました。
先に書いた内容です。
長浜城歴史博物館友の会主催の北近江歴史大学によるH28年度開講講座、
テーマ「大河ドラマ『真田丸』をめぐる群像」
第3回 見直される豊臣秀頼の実像 を聴講して来ました。

秀頼様研究の第一人者が井上先生として、
福田先生は現状唯一井上先生と並ぶ程に秀頼様を研究されているのでは
ないかと考えているので今回講演会に参加出来て嬉しかった。


大まかに取り扱った内容を挙げると、
秀頼様の略歴、秀頼様の官位、秀頼様発給文書の分析、
大坂の陣における秀頼様の位置、秀頼様と近江の関係について。

ただ、シラバスよりも、先生の実際の解説の方が、講義でしか聞けない生の言葉で大変興味深かった。


<何故豊臣秀頼なのか。>
→凡庸な秀頼様像から言えば当然の質問。
→何故ヤスは豊臣家を滅ぼすために20万もの軍勢を動員しなえればならなかったのか。
→何故凡庸な秀頼様の元に10万もの軍勢が集まったのか。
→凡庸だったと考えると説明出来ないことばかり。
 秀頼様の実像が明らかになることで関ヶ原~大坂の陣の過程が分かるようになる。


<秀頼様の略歴>
文禄5年5月13日。童昇殿で、初めて秀頼様の諱が登場。


<秀頼様は秀吉様の子か。>
服部英雄説(福田先生の元同僚らしい。そうなんだw)=茶々は名護屋にいなかった、は出鱈目。
福田説を全否定して来たが、茶々が当時何処にいたかを説明していない。
茶々が名護屋にいないことの証明には、何処にいたのかを明示しないといけないが、
服部氏はそれをしていない。

文禄元年 輝元宛秀吉様朱印状(毛利家文書)。
簾中方=贈り物を貰っている人物。妻の尊称=茶々と考えるのが妥当。
服部氏は京極竜と言うが、その理由を示していない。
この時期に秀吉様の妻と言われていたのが茶々とねねのみ。
京極竜は三の丸に屋敷を与えられてから妻扱いとなると考えられる。


<茶々は名護屋にいない?>
名護屋にいなければ、秀吉様の子でないことは誰の目にも明らか。
秀吉様含め、誰も信じない。
もしかしたら秀吉様の子かも、と言う可能性があるから回りも信じた。
疑う人もいたが、信じる人もいた。
→茶々は名護屋城にいた。
また、大坂の陣の時にあれは秀吉様の子ではない、と言う人は誰もいなかった。

政治史上、「秀吉様の子」=「秀頼様」。
このことが一番重要である。実子かどうかは信じるか信じないかだが、
この状況があるからこそヤスは関ケ原合戦後「秀頼様」を大坂城から追い出せなかった。


<秀頼様の略歴>
二条城会見で秀頼様がヤスの処に行った。
福田先生は「臣下に入ったのは間違いない」と言う考え。


<秀頼様の官位>
養源院蔵の秀頼様像は直衣姿(三位以上)。
芸大蔵のものは束帯姿であることから、養源院のものは10歳頃の姿であると思われる。
秀頼様は慶長2年9月29日に従四位下・左近衛中将であり、
慶長3年4月20日には従二位・権中納言になられている。
同日に秀頼様と秀忠が権中納言に任命されているが、秀頼様の方が冠位が一つ高い。
慶長8年2月12日にヤスが従一位右大臣征夷大将軍になる。
しかし、この時点でも秀頼様には関白になる道が用意されていた。
ヤスの後に秀頼様は慶長10年4月13日に正二位右大臣になる。
秀忠は正二位内大臣征夷大将軍。
左右内大臣の順なので、右大臣の方が上。
慶長19年3月(大坂の陣の年)、ヤスに太政大臣宣下が下るがヤスは辞退。
その代わりに秀忠に右大臣別当従一位を希望するが、それは実現せず。
秀忠の地位を秀頼様より上にさせようとしたが、そうこうしている内に世が乱れ、
大坂の陣が起こり秀頼様が身罷られたので、徳川と豊臣の官位上下争い自体がなくなった。


<大坂城での秀頼様との対面>
秀頼様五歳。福田「可愛らしい字を書いているなと言う印象。」
岡山県記録史料館寄記「豊国大明神」。十一歳の頃の字は大層立派。
大や明の文字で、下をピュッとはねるのが秀頼様の文字の特徴。


<帝鑑図説>
秀頼様十四歳。老人の風記あり。


<大坂城での誕生日祈祷>
秀頼様16歳。毎年義演は秀頼様の誕生日祈祷をする。
祈祷は長いため、例年は途中退場されていた。
この年、初めて途中退場せず、最後までいた。
膝をついて座って義演にお礼をした。
成人した秀頼様が、施主として義演をもてなしたことを立派と記している。


<二条城会見>
秀頼様19歳。福田氏は秀頼様が下に立ったと見るのが正しいと思うとのこと。

凡庸な秀頼様像の史料は江戸時代のものがたくさんある。
→秀頼様がどのような人物だったか、少ないながらも一次史料で確認出来る史料がこれだけある。


<秀頼様発給黒印内書の意義>
内書…直状形式の書状。(返礼状)奉書。
秀吉様…初期は花押(書判)→朱印使用へ。5000くらい朱印状が現存。
ヤス……関ヶ原合戦後は花押っと朱印併用→関ヶ原後は黒印状じぇ。
秀頼様…最初から黒印状。最初からヤスを意識して黒印状を使用している。

例として、関ヶ原時の全く同日の書状。(慶長5年7月26日)
田中吉政には朱印状(公文書として発給、秀吉様を引き継ぐ意味)、京極高次には花押(私信)。
→公儀(秀頼様)の代わりとして朱印状を使用していた。

黒印状(失礼) ⇔ 朱印状 ⇔ 書判状(花押、丁寧)。
秀頼様が一大名やヤスより下だったら最初から最後まで黒印を使うなんてことはしない。
それなら花押を使用しないといけない。


<豊臣恩顧大名との関係>
蜂須賀家の書状控え。慶長15年「草案」正月5日。
新春祝賀として鯉を献上されている。蜂須賀家から片桐且元宛。
軽い進物を贈り、その内礼をしますと書いてある。

年未詳3月14日秀頼様黒印状。
何故年頭の礼を3月にするのか。
正月に行きたかったけれど行けなかったので、仕方ないので三月に贈ったと考えられる。
→毎年蜂須賀家は恒常的に大坂城に来ていたと考えられる。

三季内書や年頭祝賀。
儀礼的よりも、主従儀礼、領主権の承認、親密な交流が見て取れる。
慶長19年(大坂の陣の年)8月16日、蜂須賀家は阿波に豊国神社を建てる。
大坂の陣後、蜂須賀家は松平氏に改名する。
蜂須賀至鎮と秀頼様の交流を示す資料として、17点の黒印状が残っている。
蜂須賀以外にも、多くの大名家は秀頼様を交流を持っていた。
秀頼様は孤立していなかった。

秀頼様の書が多く残っていることについて、福田「字が綺麗だから残した側面もあるかも。」


<秀頼様は一大名だった?>
当代記・落穂集で、摂津河内和泉を合わせると65万石。これは正しいか。
太閤蔵入地、全国の領地の存在。
慶長7年に秀頼様が近江をあてがっている書状が残っている。


<秀頼様と近江の関わり>
竹生島宝厳寺。今日初めて福田先生は竹生島を訪問。
会場はオチが分かっていたようで苦笑いの声w 平成30年まで工事中なのです。
ガイドさんに見せて貰った写真では修理後は極彩色に塗られる予定とのこと。


<大坂の陣の経緯>
冬の陣の城割り。当時の城割り感の違い。
冬→夏の間に秀頼様は何をしていたのか。
何もしていない、ではなく、出し抜かれた、と考えるのが妥当。

慶長19年9月26日、且元が出仕を絶つ。
一か月以上駿府に足止めされて大坂に戻れない。
ちょうどこの日(9/26)、豊臣は島津や伊達に大坂の陣への援軍を要請している。
しかし、9/14付で諸大名は徳川への起請文を提出済だった。
既に遅かった。(それまで且元に交渉を一任していたため動けなかった。)

1614/10/23、ヤス京都着、秀忠江戸発。
この日までにも何度も起請文を書かせていた黒田長政に「秀頼とは結託しません」と
名指しで起請文をまた書かせている。
黒田長政、福島正則、加藤嘉明は今までにも起請文を書かせていたが、
それでも江戸に留めおかれている。
→如何に徳川が着々と大坂の陣に向けて準備をしていたか分かる。
10/1 片桐兄弟大坂城退去、10月初旬 牢人大坂入城。


<豊臣政権とは何だったのか>
天下人(統一政権)の地位の継承。天下は持ち回りの認識。
信長の「想定外の死」の後、天下を地位を秀吉様が継承。
これを誰が継承するか、秀頼様が成長するまで「合儀」によって決定しようとした。
太閤置目、起請文(ヤスの起請文も秀吉様の真似)、遺言…。
秀吉様の残した構造は、ピラミッドの頂点に秀頼様を置き、
その下の公儀、合儀を五大老、五奉行によって支えようとしたものだった。
起請文の力は大きく、島津は関ヶ原の際に「ここで起請文を書いたから東軍につけなかった」と言っている。



<二重公儀体制について>
福田は二重「公儀」と言う考えには否定的。
天下人=将軍を言う考え方は江戸時代のもの。
秀忠はヤスの死後に天下人に、家光は秀忠の死後に天下人になっている。
将軍型公儀は実態がない。公儀の中心にいるのが天下人である。
将軍型公儀と関白型公儀があるなら、◎の中心はどちらか分かりにくい。
ピラミッド構造で、頂点に天下人、その下に関白型、その下に将軍型と考えるのが
家位制から言えば適当と考えられる。
将軍型と関白型は潜在的な権威性と考えられる。


<何故豊臣氏は滅びたのか>
秀頼様実子説で政治史が動いていた事実が重要。
大坂の陣はいずれにせよ避けられなかった。
→天下人の地位の継承戦。
秀頼様には準備期間が必要だったが、ヤスはそれを与えなかった。
秀頼様の自賛「鳰照や海のながれのあれはしる~」は、湖面のきらきら輝く風景を謳ったもの。
ヤスに攻められて何処に流れるか分からないが、葦はじっとそこに立っている。
自分にも春が来れば機会がやって来ると謳ったのではないか。
琵琶湖に自分の心を託したのではないか。
福田「秀頼自賛の「秀」の文字がはねている。秀頼らしい。」



講義は15時に終了し、その後は質疑応答。
(全体的に、講義ちゃんと聞いてた???って突っ込みたくなる内容多し。)

①秀吉様と秀頼様の身長差について。
→秀吉様は幼い頃良いものを食べていなかった。
また、秀吉様が小さい、とはバテレンが書いているが、バテレンはみんな小さいと書いている。
ねねが秀頼様を可愛がっていることからも、秀吉様に通じるものがあったのだと思う。

②豊臣恩顧の大名は何故大坂の陣で豊臣方につかなかったか。
→起請文を書かされていたから。
しかし、隠し牢人を大坂城に行かせないと10万人にならないのでは。
徳川と豊臣、どっちについても良いと言う考えの人もいたと思われる。

③秀忠の冠位について
従一位には後になっているが内大臣にはなっていない。
秀頼様とどっちが上かと揉める前に秀頼様が亡くなった。

④ねねと淀の関係について
対立している資料は存在しない。
仲が悪かったと言う説も近年は覆されている。
大坂の陣の時も、ねねは和平に向けて協力しているし、高台院に行ってからも仲良くしている。
茶々も和平に動いていたが、秀頼様がここで決着をつけねばもう後はないと思っていた。


あとは、秀頼様の書は滋賀でも、知善院、長浜八幡宮に残っているとも。

福田先生の講義の後は長浜城の館長のお話。
大河の且元の扱いは不満。何故あんな胃が痛いばかり言っているのか。
豊臣家を如何に支えるか尽力した人だ、と絶賛。




最初から最後まで秀頼様尽くしで、本当に興味深く為になる講義でした。
おまけにアフターで福田先生に直接質問出来たこと、
秀頼様同志の方と出会えたことも非常に有意義だったと思います。

またこんな素敵な講義に参加出来ますように!
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