BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
又兵衛小説と盛親ちゃんの本読んだ。
本自体はそれなりに読んでいるのですが感想書く暇がなくて、
延び延びになっていた本の感想を少しずつ書いて行きたい。


①「生きる故」 矢野 隆 (著)  PHP研究所
勝永の顔だちについてこんなに言及していた小説は初めてです。
信繁が常にへらへらしているのがこわい。
五人衆では又兵衛がメインなので又兵衛はとても安定していた。



②「長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ」
平井上総著 ミネルヴァ日本評伝選
これは発売してすぐの頃に一度読んだのですが、ブログに何も書き残してなかったので
今更ながら特筆しておきたいところ書き残しておく。




ツイログ。




<10/20>
これ読んだ。飢と言う少年が主人公で又兵衛が好き親父ポジで人生の引導役。武将でなく少年目線なのはライトな読者層を意識してるのか、読みやすい小説だった。秀頼様も出番多め。 生きる故(ゆえ) PHP研究所

10/20 2:38[ Twitter Web Client ]

戦を知らずに生きて来て城下の出来事も別世界の様に見る秀頼様に対して又兵衛は最初遣る瀬無さを感じてるんだけど、冬の陣の途中辺りから段々と秀頼様の変化を感じて、和議の頃や夏の陣では大将としての覚悟を持ってるのを理解してる又兵衛の描写良いですね 秀頼様が又兵衛信頼してた逸話私も好き…。
10/20 2:44[ Twitter for iPhone ]

あと勝永にやたら美麗な描写多いのは特筆すべき。勝永出てる小説は色々読んで来たけど勝永の顔立ちに随時言及してる小説初めてだよ…作者は今回の大河を意識して本作を描いたとのことだけど、岡本勝永イメージしたからそうなっちゃったのかね。
10/20 2:49[ Twitter for iPhone ]

初登場で「涼しい顔立ち」、他「美麗な顔立ち」「端麗な顔に微笑み」とか、これ最初の軍議の場面だけなんだけど、別に勝永の顔の美しさに言及する必要なくないですか?笑ってしまうからやめて貰えます?!(好きです
10/20 2:54[ Twitter for iPhone ]

秀頼様の描写は気品を感じさせるし信繁は何考えてるのか分からないところあるけど又兵衛と良い感じの同志になってるし戦の描写も勢いがあるし豊臣兵的には優しくて易しい小説だと思う でも勝永のとこだけ笑ってしまうから勘弁して欲しい。
10/20 3:00[ Twitter for iPhone ]

堺焼き討ちの緊迫した場面で「勝永の端正な顔」と「長い睫毛に覆われた目」っての出て来て色々駄目だった そう言う表現は重成に使ってやれや…重成は瑞々しくて又兵衛を慕っているとても良い若武者ではあるけれど少しキャラ薄かった様な。
10/20 3:03[ Twitter for iPhone ]

又兵衛の死、信繁の死。城が落ちる、と言う所で飢は秀頼様と別れて只管逃げる。秀頼様はもうこの世にはいないだろう。親に愛されていなかった、と思っていた飢。それは間違いだった。生きる為に戦う。最後は、オリキャラの菖蒲と言う女と強く一緒に生きて行こうみたいな終わり方だった。
10/20 3:14[ Twitter for iPhone ]

生きる故、と言うタイトルについて。浪人達は死ぬ為に戦う。ただ負けるつもりはない。敵を斬って斬って勝てるだけ勝つ。戦に負けようとは思わないが死にたくないと思う奴もいない。勝永や又兵衛はそう言う考え。この地で死ぬと決めた。多くの者を犠牲にした上で死ぬ。
10/20 3:19[ Twitter for iPhone ]

侍が自ら死ぬには腹を切らねばならない。腹を切るのは自らの過ちを認めること。過ちがなく、己のこれまでの歩みに悔いない者は戦って死ぬしかない。それが侍の道理。飢には分からない。飢は生きる為に戦う。
10/20 3:20[ Twitter for iPhone ]

中川さんクランクアップしたのか。TL的に他俳優さんのクランクアップ情報来てないから最終回ではないぽいな。 中川大志 「幸せです。」 ⇒ http://ameblo.jp/nakagawa-sd/entry-12211346462.html
10/20 2:53[ Twitter for iPhone ]

私の中の豊臣方ヒエラルキーこんな感じ。 秀頼様:崇敬、君主、信仰対象 勝永:とても好き、興味津々 重成、治長、治房:かなり好き、興味津々 七手組:好き、興味津々 幸村:人並みに好き 又兵衛、盛親、全登:主に後半生が好き
10/21 1:11[ Twitter for iPhone ]

口絵に元親書状や盛親草摺等。当時の情勢、父子の経営者としての側面を一次史料を元に読み解く。二次史料は土佐物語、元親記録、長元記中心に。 長宗我部元親・盛親:四国一篇に切随へ、恣に威勢を振ふ (ミネルヴァ日本評伝選) ミネルヴァ書房

10/21 9:27[ Twitter for iPhone ]

第1章~第6章。長宗我部家の黎明、元親登場と土佐国統一、土佐から四国へ、豊臣政権下の元と盛親、豊臣期の領国支配、長宗我部家の落日。
10/21 9:31[ Twitter for iPhone ]
(※↑この本の詳細は後述。)

メモ。 :https://www.gifu-np.co.jp/gifumeguri/spotaichi.shtml?p=161021 「三英傑とともに歩んだ浅野長政~いちのみやの戦国時代~」 (一宮市博物館 愛知県一宮市大和町) 午前9時30分~午後5時。 月曜日と祝日の翌日は休館。 観覧料=一般500円 名鉄「妙興寺」駅下車、南口から徒歩7分。
10/21 15:08[ Twitter for iPhone ]

布教用の勝永本を仕入いれたら勝永ロイヤルストレートフラッシュ出来た これでどんな戦も勝つ永る。
10/21 17:46[ Twitter for iPhone ]





長宗我部本について。
前半の元親辺りは自分の興味関心の程度から割愛。
気になるところだけ。

■盛親と家督継承について
津野倫明氏は「長宗我部盛親の家督相続」で、
(盛親が家を継いでも官職を名乗らず、右衛門太郎を名乗り続けたため)
豊臣政権は盛親を長宗我部後継者として認識していなかった説を唱えているが、
著者は「旧期雑録」に「羽柴土佐侍従父子」、1598の秀吉様朱印状で「土佐侍従、同侍従」とあること、
吉川広家が盛親を「土佐侍従」と読んだり井伊直政が「土佐守」と呼んだことからも、
盛親は例え任官していなくとも、周りは盛親を土佐の支配者と認識していた、
豊臣政権からも認められていたと見るべきと示す。


■関ヶ原 東軍か西軍か
有名なのは土佐物語。
盛親は東軍につく筈が、長束正家の関所を超えられなかったため、やむを得ず西軍についた説。
しかし、土佐物語はこの直後に「関所を通れなかった者は一人もいなかった」と書く。
山本大氏も、盛親と増田長盛の関係を考えると真偽のほどは疑わしいとし、
最初から西軍に参加する予定だったのではないかと推測する。


■秀頼様へご馳走の儀
島津義弘の書状「旧記雑録」には、「長宗我部殿は人数五千人、鉄砲千五百丁を召し連れました」
「秀頼様へご馳走の儀と聞いています」とある。
義弘によれば盛親は秀頼様へ尽くすため求められた軍役の2.5倍の兵数を連れて来たと言う。
しかも兵数の三分の一の鉄砲を持って来たと言う本格的動員。
義弘はこれを「馳走」「忠義」と書いているが、これは秀頼様への忠誠心と言う名の「忠節」ではなく、
大きな人数を連れて来たと言う意味での「忠節」であある。
この「忠節」「馳走」によって、豊臣政権からの評価を確保しようとしたのだと思われる。


■浪人時代
浦戸一揆(長宗我部家臣が本拠地である浦戸城の明け渡しに反対して起こした一揆)の後、
盛親は大坂に渡った後、二度と土佐に戻ることはなかったと思われる。
1601年5月には曽祢高政宛に「最近は伏見に在宅」と書いている。(「曽祢三郎右衛門」「萩藩閥閲録」)
その後1610程までは伏見に住んでいたと思われる。
この頃のヤスが伏見を拠点としていたっため、立花宗茂の如くヤスから領地を貰えるよう
情報収集や、旧知を頼って運動して貰っていたのではないか。


■家臣たちの処遇
盛親は家臣と別れる際、いずれ召し戻すと約束していた。
盛親の士官活動は自身の生活の安定のためだけでなく、手放さざるをえなかった家臣を
復活されることが最終目的であったと言えよう。
桑名吉成の藤堂高虎への仕官は盛親も納得した上のものであった。
おの後、桑名吉成、宿毛甚左衛門などは藤堂家に仕えたまま大坂の陣で盛親達と対峙することになる。


■1610年以降
1610頃を契機として、伏見での仕官活動を断念し洛中に住んだようだ。
居住地の一次資料は存在しない。相国寺の西側付近の地名の史料が多いため、概ねこの辺だろう。
(小川通=大坂陣山口休庵咄、相国寺門前=槐記、柳ヶ図子=系図・土佐国蠧簡集 221号、東遊草、土佐物語)
「大日本史料」によると、幽夢を名乗っていたが、これは「慶長日件録」や「旧記雑録」からも
遅くとも1610年には名乗っていたことが明らかである。
相国寺周辺に住んだ後の盛親の動向は史料によって異なっており、
「大坂陣山口休庵咄」や「槐記」は寺子屋で生計を立てていたとするが、
「土佐物語」は放し囚人(刑具無しで一定の場所に留置する刑)とする。
しかし、慶長日件録によると、慶長15年に盛親が杉原紙を持って公家の舟橋秀賢の元を訪れていることが
確認できるので、公家の家に出入り出来る立場であったと言うこと、
また同年、島津家久(忠恒)が京都で盛親と会っており、翌年正月のやり取りをしている(「加治木御日記」「旧記雑録」)こと、
そもそも盛親は罪人ではないことからも、放し囚人であった可能性は著しく低い。


■大坂入城
盛親が京都を出て大坂入城をしたのが10/7朝。(「時慶記」)
「土佐軍記」によると、京都所司代板倉勝重に呼び出され大坂に味方するとの噂は本物かと聞かれ、
全くその心はありませんと答えたその日の夜に京都を抜け大坂に入ったとする。
「槐記」によると相国寺門前を出た時は2,3騎だったが、寺町三条を抜ける時には2、300騎、
伏見では1000騎の軍勢に膨らんでおり、それを知った板倉勝重は
早めに盛親を討っておくべきだったと大いに怒ったと言う。
この逸話が成り立つならば、秀頼様の迎えの軍勢以外にも、それなりの数の軍勢が
京都周辺に潜伏していなければならない。
大坂入城の順は、「本光国師日記」では盛親、信繁、仙石宗也、全登。
「駿府記」では盛親、又兵衛、宗也、全登、松浦重政、数日遅れて信繁、若原右京、浅井周防守、根来衆。




その後は、盛親の逃亡、盛親捕縛と処刑の様子、戦の後の長宗我部家等。
盛親ちゃんメインの御本として良本だったと思います。
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