BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
最近読んだ本。


①「戦国軍事史への挑戦 ~疑問だらけの戦国合戦像」 (歴史新書y)
鈴木 眞哉 (著)
「歴史の常識」に疑問を投げつける筆者の突っ込み本。
読者目線でこの本に突っ込むと言う意味ではないので至極通りなのだけれども
せんせーはフィクションをフィクションとして雰囲気で楽しめないのではと心配になるw
内容は面白いけど、本当に疑問だらけで結論がないのでもやもやした。



②「秀吉神話をくつがえす」 (講談社現代新書)
藤田達生 著。
わざと安置豊臣な本でも内容見てやろうかと思って手に取ったんだけど
タイトルて釣ってる部分あると言うか目新しくもない秀吉様と言う印象。
最後何故かアカの主張が入って来てとても冷めた。



③「戦国合戦 通説を覆す」 草思社
工藤 健策 著。
一昔前の「常識」、や「通説」に疑問符を投げかける話は今日大変よく見るので
歴史人や歴史群像を直近二年分くらい読めばもう全部そのネタ既出ですと言えるし
覆されると言うより想定の範囲内なので作戦に変更はなしだ、って感想。
有名な戦いばかりだし読みやすいとは思う。著者はダテサナ派だった。




④「近世大名墓の世界 (季刊考古学別冊 20)   雄山閣
坂詰 秀一 編纂。
三英傑の墓と各地の大名墓の調査、考察。
高野山で色々な大名墓を見たのでお墓の造りを体系的に知るには面白いかと。
お墓参りは昔からよくやっていたのでこの手の解説書で見るべきポイントが分かると
また大好きな方々に会いに行きたくなる。




⑤「足るを知る生き方―神沢杜口「翁草」に学ぶ」 講談社
立川 昭二 著。
勝永を褒めた人として極一部の人()に揺るぎない評価を受ける
勝永クラスタ先駆者杜口さんですが、それ以外にも物凄く多くの逸話を書き記していて、
立川先生の優しくて易しい文章で分かりやすく読めたのは嬉しかったです。
翁草200巻もあるんだもの…全部読める程の気概がないので解説書有難い。


①「戦国軍事史への挑戦 ~疑問だらけの戦国合戦像」 (歴史新書y)
鈴木 眞哉 (著)
目次を書き出すと、軍隊の在り方、兵糧区分、兵士の装備、兵士はどう集められ訓練されたか、
戦国人はどのように戦っていたか、武士たちの功名はどう扱われていたか、
死傷者と武器の問題を考える、と非常に興味深いテーマがずらり。

その上で、信長の軍隊(鉄砲)は本当に「進んで」いたのか、それに敵対した勢力は本当に「遅れて」いたのか、
鉄砲の歴史だけで言えば雑賀衆や根来衆の方が早そうである。
そのような疑問を投げつけながら「実際のところは分からない」で〆るので読んでてオチを!オチをくれ!ってなる。
傭兵集団と主従関係の在り方についても、同様。
兎に角謎を投げかけたまま結論はないので段々戦国哲学みたいになって来た。
色んな家、色んな戦いを例に挙げているので具体的な想像はしやすくなっております。





②「秀吉神話をくつがえす」 (講談社現代新書) 藤田達生 著。
猿と呼ばれた歴史はないとか、秀吉様の出自の謎とか太閤記のここは嘘とか、
本能寺の変の背景とか計算された中国大返しとか。
しかし最終章で「軍国神話の現在」と称して筆者の一番言いたいことがあるであろうエピローグに、
秀吉神話は要請されたものであり、現代の秀吉神話は皇民化教育を彷彿とされると言った
記述までされると歴史書でなくただの赤い本かって感じした。




③「戦国合戦 通説を覆す」 草思社
工藤 健策 著。
川中島の戦い(名将一騎打ちはあったか)、
織田信長の戦い(桶狭間と長篠の戦い、信長は戦功者と言えるか)、
三方が原の戦い(何故ヤスは負ける側に出陣したのか)、
高松城水攻めと中国大返し(秀吉様は絶体絶命の危機だったのか)、
賤ヶ岳の戦いと美濃大返しのトリック(何故あっという間に帰れたのか)、
関ケ原の戦い(大合戦の舞台裏、ヤスのドタバタ劇)、
大坂の陣と真田幸村(戦国の掉尾を飾った名将の戦い)。
タイトル見ても分かるように関ヶ原のヤスは大変がっかり武将な描き方だったし
大坂の陣で大坂方を持ち上げてくれてるんでこの人大坂方なのかって欲目で見てしまった。

三成挙兵は予想外でヤスは出し抜かれて焦った、
伏見城の鳥居元忠は美談で片付けられるが実際はヤスに見殺しにされたかたち、
秀忠遅参はヤスの連絡ミス(伝令が遅れた)のが原因等。

大坂の陣に関しての通説と実態として挙げられている例を記載しておく。
大坂スキーには全部既出だと思われるけど、それな、ってのばかりだった。

・ヤスは豊臣家が恭順の姿勢を示せば存続させるつもりだった。また豊臣系大名が死ぬのを待っていた。
→ヤス自身も高齢。単純に資金がなかった。

・又兵衛が冬の陣で出撃策を唱えたが、徳川スパイの小畑景憲が
「古来より宇治・瀬田に迎撃を張って上洛する軍勢の撃退に成功した例はない」と言ったので籠城に決まった。
→軍歴もなく直臣でもない下級武士の小幡が軍議に参加出来たと思えないし、
冬の陣当時豊臣方にいた証拠もない。
その後徳川方に召し抱えられていることから、スパイとしてこんな戦功を立てたと自らでっち上げたのでは。

・何故堀の埋め立てを徳川の思うままに進めさせたのか。
→城の埋め立てを阻止すれば再戦の意思狩ありと思われるため、故意に見過ごした。

・道明寺の戦いは又兵衛の迎撃案。河内路と大和路に分かれ、大坂方が道明寺に入る前に国分の先で各庫撃破。
→幸村や勝永は国分で徳川軍の進撃を食い止めても一時的効果しかないと分かっていた。
それよりも大坂城南方に結集し一気の決戦を挑んだ方がヤスを討つ可能性があると見た。
幸村が遅れたのは又兵衛が死に場所を求めていると分かったから。(←これ個人的には信用出来ないけど。)
霧が出たとしても8時間も遅れると言うのはおかしい。
幸村に徳川の先鋒と戦う意思はなかったので、後藤の奮戦を見届け、
徳川方が既に国分に達していたので進軍をやめたのだろう。

・関東勢百万と候え、男は一人もいなく候。
→攻撃してこない伊達軍、徳川方を挑発したと思われているが、そもそも幸村には戦う意思がない。
明日を最後の戦いと決めて、寡兵ながら徳川の大軍に挑もうとしている大坂方を
目先の功名のために攻撃するのは男のすることではない、の意味。
伊達が徳川方の前進を阻止したのも幸村の思いが分かったからで、
幸村の言葉は「徳川勢は何万といるのに伊達殿のような男は一人もいないのか」とも取れる。(←ちょっと盛ってない?w)

・伊達政宗の行動(神保相茂射殺事件)
道明寺の戦いで神保隊が敗走して来たので共崩れを防ぐために銃撃した。
→それだけの理由で神保隊300人を壊滅させるまでするか。
最終合戦で死に花を咲かせようとする幸村達に対し、目先の功名の為に戦働きをする神保隊が許せなかったのでは。

5/7の船場口の戦い説もある。(※道明寺よりこっちのメジャーだと思う。)
伊達勢は先鋒の水野勝成から再三使者が来て、真田隊を攻撃するようにと督促されると
それも頭に来たようで水野の使いを射殺した言い伝えもある。
明石勢が松平忠直の越前隊先鋒を崩した時、その後陣の水野隊に加わっていた神保隊が
明石勢に攻めかかったのを快く思わず射殺したと言う。

…まーくん伝説何でもありだな。
なお、この後著者は阿梅と片倉と真田の話を美談的に紹介しているけれど
これはもう乱取り説のが今後メジャーになっているのはないかと思う。
著者はダテサナ派なんだと思う。




④「近世大名墓の世界 (季刊考古学別冊 20)   雄山閣
坂詰 秀一 編纂。
徳川将軍家の墓所の形成、中世武士の墓の終焉と高野山大名墓の成立、
織田信長の葬儀と墓、豊国廟と東照宮の成立、考古資料から見た近世大名墓の成立、
文献史料から見た大名菩提所の成立、第五回大名墓研究会シンポジウムの概要、
江戸における近世大名墓の成立、地域における近世大名墓の成立(九州、中四国、東海、東北)。

「中世武士の墓の終焉と高野山大名墓の成立」では
高野山奥の院16世紀代大型五輪塔一覧表が29か所分記載され、銘文も載っていた。
実際に現地に行ったら苔が凄くて判別出来ないのも多い訳ですが。

「織田信長の葬儀と墓」では信長の墓所が21か所も紹介されていて感心した。
阿弥陀寺(寺伝では墓とされる)以外は正式な墓(遺骸を納めた墓)ではなく、
衣冠墓或は供養塔だけれどもそれでも凄い。
京都だけで阿弥陀寺、今宮神社、大徳寺総見院、大雲院、
本能寺、妙法寺玉鳳院、建仁寺、聖隣寺、健勲神社、
滋賀の西光寺、摠見寺、大阪の南宗寺、和歌山県の高野山金剛峰寺、
富山県の瑞龍寺、静岡県の西山本門寺、愛知県の長興寺、総見寺、総見院、
岐阜県の崇福寺、熊本県の泰巌寺跡、山形県の三宝寺。聖地巡礼が捗りそうだ。

「豊国廟と東照宮の成立」では各地に勧請された豊国社の説明あり。




⑤「足るを知る生き方―神沢杜口「翁草」に学ぶ」 講談社
立川 昭二 著。杜口さんのジャーナリストっぷりに敬服するしかなかった御本。
序章がいきなり「焼け跡で記録する七十九歳」ですからね、掴みが上手い。
「洛陽大火」に記された「所々消失の時刻」、被害状況、死者数の概算等、
消失した350もの寺名に地名まで付けて書き上げているとか。
そこで、杜口さんはどんな人物だったのかと慎みの前半生、楽しみの後半生を紹介。
生き方の美学、翁草の人たち(心優しき武士、楽に生きる町人、意地強き女、子供)、
社会批評、養生論、老いの生き方、死と向き合い。
エピローグにいは、杜口の墓前での著者の心境を語る。

今日のおエライ人の言葉や成功者の成功談が載っているビジネス本とか、
自然に生きようみたいなスピリチュアルな本とかありふれているけれど、
何故言っている内容は同じなのにこの御本だとしっくりすっと胸に落ちるんだろうな。
大切なものや、守るべき節理なんで数百年前でも変わらないのだもの。
そうしたら、語り口が優しいものの方が受け入れられて当然だよなあ。
「生涯皆芝居なり」と言う言葉は流石にシェークスピアかと思ったけど。

「寒気は筋骨しまって、精神爽なり」と語った杜口は冬生まれ。
「寒暑の好き嫌いはその人の生まれた時節によると言う」
自分が「稟たる気候の自然と時に和して感ずる」のはそのためであろう、と言ってるの
凄く納得した。私も夏苦手で冬のが好きだものーーー。

「翁草の人たち」では、武士周辺の話が面白かった。

白河侯(松平定信)が「醜婦を御部屋と定給ふ」ために
「家中の醜婦が皆結婚」し「寡婦の患なし」であった(但し真偽は不明)とし、
外見的美醜による社会不平等に対する人間的な思いを書いた。
武士の死に方として、黒田如水(長政のためにわざと頭がおかしくなった振りをしいた)と
松平伊豆守信綱(危篤に及んだ時、子息や家来を呼び、遺言はどうするかや、
帳面に自分の印鑑を押す等、間違いのないように運んだ)を紹介。

毛利安左衛門と言う浪人は、生来篤実で嘘のない人であった。
戦場とは容易く功名を立てられるものではない、昼夜なく心を苦しめ、
寒暑の凌ぎようもなく、飢えを凌ぐばかり。
城中では今にも夜討があるかと寝食を忘れる程で、色々な噂が流され仲間に油断できず、
寸時も安らかな気持ちにはなれない、勇気をくじくことばかりである。
闘争(喧嘩等)は互いの怒りから勇気も出て死を顧みないことにもなるが、
合戦は敵に対して個人の怒りはない。ただ忠と義を楯にして戦うので
「喧嘩程に勇気出ざるものなり」。
十中八九、功名の望みも失せ、戦が済んだら武士をやめ卑しい仕事でも人生を過ごしたいと思う。
わしも長宗我部に従い、藤堂の軍に備えて八尾堤の下で槍を伏せていたが
わなわなと体が震えていた。口惜しいことと我が心を責めて傍らを見ると
「外(ほか)の人も皆ふるひわなゝき居たり」。


町人の章では、高瀬舟で流されていく流人の話が印象的だった。
鴎外の「高瀬舟」のモデルとなった話。(巻117)
ある日一人の流人が島送りの命令を受けるや否や世にも楽しげな様子で少しも悲しんでいない。
守護の同心が、卑賎の者でありながらよくも覚悟したものだと感心してその者を褒めたところ、
「元々日々僅かな収入でその日を過ごしていた。
この度、在牢の間、二百文の銭までくれて島へ送ってくれると言う。
これまで二百文の銭など持ったこともない。
これ程の元手があれば、例え鬼のいる島でも構いはしない。
元々妻子親類もいないので都に名残もない。」
この者は西陣の紋織に雇われていた者で、兄弟がその日を過ごしかねて自害をしかかり、死
にかけるのを見つけ、とても助かりそうもないので手伝って殺した。
その行為は元々悪心はなく下々のわきまえない仕業であることは取り調べの上で
明白であったので、死罪一等を減じられたと言うものである。


愛が強い女では、亡き夫への忠節から、自ら鉄を焼いて顔に当て禅門に入った女等も
凄いと思ったけれど、印象に残ったのはこれ。

切腹のさま「従容にしてやはらかにありし」の十五歳の少年。(巻六)
加賀藩家中に杉本庄左衛門と言う者がおり、その子の九十郎と言う者、
十五の時父が江戸へ役目で行った。
その後、同じ年配の近所の子供と囲碁の上で口論になった。
九十郎はこらえきれず刀を抜いて相手に一太刀斬り付けたが、傍らの人たちに押さえつけられた。
そこで、このことが役所に届けられ、相手の傷を療治させるべしとのことで、
その間九十郎は「官長」のところに預けられた。
彼は少しも臆した様子はなく、振る舞いの落ち着いた様も、なかなか年に及ばない様子であった。
日を経て、相手はついに太刀で自殺してしまったので、役所は九十郎も切腹させることを議決した。
その前夜、主人が名残を惜しみながら酒肴でもてなそうとした。
ところが九十郎は母に手紙をしたため、主人に丁重に謝辞を述べ、
付き添ってくれた人たちにもそれぞれ懇ろに暇乞いをし、
名残惜しいけれども明日切腹の時に眠くては如何と思うので先に寝る、と言い
奥の間に入り高鼾(たかいびき)で寝てしまった。
翌日、良い頃合いに起き出し、沐浴し、衣服を改めながら用意を心静かにし、
その後切腹の席へ出て検使に一礼し「こゝろよく切腹しぬ。其ありさま従容にしてやはらかにありし」。
いかなる勇烈で老巧の武士であってもこれを超える者はいないと見え、
その場に居合わせた人たちは年が経った後までも語り合っては、
涙を落とさない者はいなかったと言う。

この、「従容にして死につく」ことはよく言われるが、「やはらかに死ぬ」とは
その少年の有様がやはらかだったためか、どんな死に方だったのであろうか。
短い逸話ではあるけれども、心に残る話だった。


社会批評では、「翁草」巻五十に日本人が生命を軽んずる性向があることを辛辣に述べている。
「人に叱られたとして死し、笑はれたとして死し、負けたとて死し、
鞘があたりたとて死し、雑人の手にかゝらんよりはとて死し、色に溺れては死す。
是等は身を殺して仁をなすと思へるや。かやうに命は惜き事に思はざるが、所謂日本心か。」
何か外国人も、日本人は使者は懇ろに弔うのに生きている負傷兵はそのままだ
みたいなこと言ってるのありませんでしたっけ…何処の何の話だったか忘れたけど。


笑ってしまったのは京の百歳老人の話。
「宝暦の頃、京に100歳近い老人がいた。独り暮らしで誰を頼る当てもないまま
その日その日の飢えを凌いでいた。
そうしていてもその身は老いてなお壮健で生命力が強いのが我ながら疎ましく、
断食して死を待つより他はないと半月余りも食を断っていた。
丁度師走の頃、日ごろ出入りする家から餅つきだと言うので
ぜんざい餅を重箱に入れられたものが贈られて来た。
どうしようもないので、彼は表の家守(差配人)にそれを差し出し、事情を説明して返そうとした。
家守はそれを聞いて、それはけしからんことであり思いとどまる様に、
餅は持ち帰って下さいと意見した。
しかし、考えてみると、断食の後で大食いすれば即死すると言うことだから、
この餅を残らず食べたなら定めし望み通りになる思い返し、
重箱いっぱいの餅を全て食べ尽くした。
更に、この上で熱い湯に入ればすみやかに死ぬと聞いていたので、
銭湯へ行き、ひどく熱い湯に入った。
帰って来て、今宵こそは思いのまま養生できると一心に念仏を唱えてまどろんでいた。
ところが、久しく食を断っていた腹に温かな餅をしたたか食べ、
その上銭湯であたたまったので、気持ちよく熟睡した。
夜が明けて目を覚まし、自分を顧みると「精神日頃にい勝りて、爽に、筋力逞しく成りて、
さながら生まれ替れる心地」がした。
この時彼もあきれはて、「扨(さて)も浮世は斯ることか、死なんとすれば死なず、
生きんとすれば死す、よしや天に任せなん」と、それからは世を厭わず、ただ自然に暮らして、
今もますます健在であると言う。
この鉢坊主のことに杜口は何の意見も加えていないが、一時は頓死を願いながら
その望みを捨てた杜口には、この100歳老人の「天に任せよう」と言う言葉は
我が意を得た表現であったに違いない。」

これ最初読んだ時おかし過ぎてめちゃくちゃ笑ったんだけど
読み返したら少しだけおかしくてちょっと涙出そうだった。良いな、こう言うの。


長くなったのでこの辺で〆るけど、終盤の杜口の死生観のところは穏やかで優しくて
暖かい気持ちになれて良かった。
自身が言った通り、「終焉静かに眠るが如く」86歳まで生きた杜口。
「辞世とはすなわち迷ひただ死なん」が辞世の句。
京都の慈眼寺に、慎ましく並んでいる夫婦塚。
個人墓でも家族墓でもないこの夫婦塚に、杜口が如何に先立った妻を大事に思っていたかが分かる。

私も、今度京都行ったら杜口さんに会いに行こう。
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