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BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
DATE: 2016/11/30(水)   CATEGORY: 美術館・博物館
肥後の里山ギャラリー「本妙寺展「加藤清正と本妙寺」」に行って来ました。
熊本聖地過ぎて。
肥後の里山ギャラリーの「本妙寺展「加藤清正と本妙寺」」に行って来ました。

11/7~12/10と期間一か月しかないので行けるかどうか微妙だったし
実際に弾丸旅行になったけれども、本当に素晴らしくて、それしか言葉がないくらい
来て良かったと心から感じた企画展でした。

関連ニュース→くまにちコム 「清正に迫る書、具足 本妙寺展」
チラシが置いてあるHP→本妙寺展「加藤清正と本妙寺」
最高of最高だった。

作品リストは貰ったけれども図録がないのでほぼ全部メモったやつです。
何時間いるつもりなんだと思われたかも知れないけど清正ヲタなので許して欲しい。



1.加藤清正像レプリカ
衣冠束帯姿で繧繝縁の畳に座った神格化された清正の姿。
清正に仕えた狩野派の絵師によって清正没後あまに間をおかずに描かれたと思われる。
後世に描かれた厳めしさを強調した清正像と異なり、穏やかな表情が印象的。
オリジナルは修復が必要なためレプリカを展示。

2.後陽成天皇口宣案
ヤスが征夷大将軍に任じられた1603、後陽成天皇が清正に
「従四位肥後守」の位階・官職を与えることを示した口宣案。
宿紙(薄墨色の紙)が使われている。
「慶長八年三月廿五日 宣旨 従四位 豊臣清正朝臣 宣任 肥後守」

3.日真上人像
1583年、清正が父清忠追善のため摂津難波に本妙寺を建立した際、
開山として招かれた。その後日真は朝鮮出兵に清正と共に従軍し、
陣中にて戦勝祈願の祈祷を行ったほか、朝鮮国側との和平交渉にも当たっている。
1606年には高位・高徳の僧に着用が許される紫衣を後陽成天皇から賜った。

4.後陽成天皇綸旨
1605年、後陽成天皇より日真に下された綸旨。
清正や日真が左大臣近衛信尹を通じて本妙寺の寺格向上を
朝廷に働きかけた結果、国家安全の祈祷寺と位置付けられる
この綸旨を受けられた。

5.松雲大師送日真辞
朝鮮の僧侶・松雲大師が日真に贈った送別の辞。
松雲は同じ仏法を信じる者として礼節の気持ちを込めて
他日お会いして互いの心中の楽しみを語り合いたいと述べる。

6.日遥上人像
1593年秋、朝鮮出兵中だった清正軍に捕らえられた。
少年余大男(日遥の幼名)は清正にその才を認められて日本に連れ帰られ、
京都本圀寺にて十余年に渡り日蓮宗の修行を行い、1611年清正逝去に際して
本妙寺に帰山し翌年本妙寺第三世になった。
1614年熊本城内にあった本妙寺が焼失すると、清正廟所があった
中尾山の現在地に寺を移して1616年に遷佛会を修し、
その後の加藤家改易も乗り越えた。

7.妙法蓮華経 日遥筆
日遥が書写した妙法蓮華経で元は本妙寺本尊の清正木像の胎内に納められていたもの。
日遥は清正一周忌(1612年)にあたり追善のため
法華経一部8巻 69,384文字を数か月かけて一人で書写した。
清正への報恩の思いが感じられる。
この翌年の1613年より本妙寺一山の僧が一夜にして頓(すみやか)に法華経を
書写することが始まり現在まで続く頓写会の起源となった。

8.桔梗蛇の目紋蒔絵鞍
全体に黒漆を塗り、前輪に蛇の目紋、後輪に桔梗紋を金蒔絵であしらっている。
清正は1588年に肥後半国を与えられた事を機に桔梗紋を使い始めた。
一般に軍には蛇の目紋、慶事には桔梗、文化には折墨を用いたと言われている。

9.短刀 銘祐定 附網代鞘合口拵(清正拵)
1611年、二条城で秀頼様とヤスが会見した際、
秀頼様を護衛した清正が懐中していたと伝わる。
刀身は反りのない平造りで刃文は小湾れ(このたれ)に互の目(ぐのめ)交じり、
刃先の刃文は小丸帽子で返りが長くなっており、
永正年間頃の備前刀工の作行を示している。

※湾れ(のたれ)…浅く波打った刃文で、鎌倉末期に始まる。
大湾れ、小湾れの別がある。
※互の目(ぐのめ)…刃文の出入がたがいちがいになったもの。

なお、網代とは、竹を薄く細く削り交差させて編んだもの。
本作は刀の幅が狭く、鎧を通して致命傷を与えられる形のため
「鎧通し」と呼ばれる。

10.短刀 銘吉光 附茶皺革包鞘合口拵
吉光作の短刀。やや小ぶりで細身だが内反りの洗練された姿を見せる。
拵えは束に黒漆を塗った藤巻に桔梗と木瓜紋の
丸い出目抜が置かれ鞘は皺革で包まれている。

11.青磁蓮弁文碗
中国・明中期。

12.呉須赤絵仙人図平鉢
呉須赤絵とは、染付地又は白磁素地に赤緑を主調とした文様を付けた磁器を言い、
明代末~清の始めにかけて福建省あたりで焼かれたとされる。
本作は極めて上質。中央の人物は道教の八仙人の一人、
藍 采和(らん さいか)と考えられている。

13.青花文字文鉢
福建省のいわゆる「呉須染付」と呼ばれるもので、
白地の素地に酸化コバルトを用いて下絵付けを施し、さ
らにガラス質の透明釉をかけて焼いて文様を藍色に発色させる。
本作はかなり大振りの鉢で外側全体に祝意を詠んだ
七言絶句が書かれている。

14.粉引角鉢
高麗焼物の一種。素朴さに味がある。
白磁の代用品として白磁の生産の少ない全羅南道などで
16世紀後半まで焼かれた。

15.白磁碗
熊川(こもがい)形の白磁碗。
熊川形とは、貿易港である熊川付近で焼かれた高麗茶碗が
ここから輸出されたためそう呼ばれるようになった。
清正の朝鮮出兵当時のものである可能性が高い。
茶会記に出て来る「ハタノソリタル茶碗」は口縁部の端が外側に反ったこの熊川茶碗のこと。

16.秀吉様禁制
1592年4月、「高麗国」宛。
軍隊がその地で乱暴狼藉放火などを行わないと保証する。
この禁制は清正宛に発給されたと考えられるが、秀吉様が国内で使用したものと
同じ文面が使われており、国内統一と同様に朝鮮出兵を
目論んでいたことが分かる。

17.朝鮮王子等連署書状
1593年6月初2日。1592年朝鮮の会寧に進軍した清正は
朝鮮国王子の臨海君と順和君を捕えた。
その後の和平交渉により1593年に両王子は解放され朝鮮に返された。
本書状はその際に記されたもので、帰還できることを秀吉様に謝すと同時に、
捕虜として自分たちを預かった清正の待遇を感謝する内容となっている。

18.清正知行宛行状
1601年10月。家臣の木村佐兵衛宛。
日付の下に清正署名と「履道應乾」の黒印がある。
履道應乾には「正しい道を歩んで、天に応える」から転じて
「信念に従って行動すれば、必ず道は開ける」と言う意味。
清正は関ケ原合戦直前頃からこの黒印を多用するようになっており、
三成とヤスの対立が先鋭化する中、
清正の心情に大きな変化があったことが窺える。

19.清正自筆書状(ゆめのこと)
伝存する清正書状の中でも数少ない自筆書状。
清正が見た夢のことが書かれており、清正によって秀吉様は生涯の主君であり、
畏怖や敬愛の念を抱いていたことが読み取れる内容。
本妙寺住持日真上人に対して三十番神(国土を一か月三十日間、
交替して守護するとされる三十の神)への祈祷を依頼している。

20.南蛮服ジバン(清正所用)
ジバンは襦袢の語源ともなった南蛮服。
上着の一種で丸襟のジバンに和服を重ね着するスタイルが桃山時代の流行だった。
仕立てなどから見て16世紀末頃のスペイン様式の舶来品で、
我が国に現存する唯一のジバンと言われている。

21.白檀塗蛇の目紋蒔絵仏胴具足 附蛇の目紋長烏帽子一形兜(清正所用)
蛇の目をあしらった胴は表面を漆で塗り固めて一枚板のように見える。
その様が仏像の胴に似ていることから仏銅と呼ばれ、表面に透き漆を重ねる
白檀塗りの技法が用いられる。
兜は鉄板を貼り合わせた内鉢の上に和紙を張って烏帽子の形に仕上げたもので、
和紙全体に縦筋目を入れて漆で塗り固め、左右に大きく蛇の目紋が金箔押しされている。
その意匠の高さがひときわ目を引く大変目立つ兜。

22.金白檀小札紫糸縅胴丸具足(忠広所用)
胴を右脇で合わせる構造や六間に分割した草摺など胴丸の古風な形式が踏襲されている。
胴の表面には金箔を押した上から透き漆を塗る金白檀塗となっており、
紫糸で菱綴に縅してある。草摺の脛板に這龍図を蒔絵で施すなど、
桃山時代特有の華麗なデザインが目を引く大変色鮮やかな具足。

23.加藤忠広像
1601年生まれの清正三男。長男、次男が早世したため、
清正逝去の翌年、1612年家督を継ぐ。11歳の幼君であったこともあり
治世は安定せず、1618年には家臣団内紛(牛方馬方騒動)が発生。
1632年、子息・光正が家光襲撃を示唆する謀書事件を起こしたとして改易。
本図は繧繝縁の畳に座る追慕像で江戸中期に
細川氏御用絵師 矢野雪叟が描いたもの。

24.忠広自筆書状
1611年、清正側室 正応院宛。江戸滞在中の忠広が「おとゝさま」の病状を心配し、
きっと本復することを祈る内容となっており、忠広の父への思いが伝わって来る。
しかし本書状が書かれた6/28の4日前に清正は熊本で息を引き取っていた。

25.梶山九江筆「本妙寺山景図」
幕末~明治の画家。
題箋に「安政六年未年三月於本妙寺清正公二百五十回御忌開帳見世物図」とある。
参詣者の姿は描かれていないものの、生き人形や軽業などの出し物や出店が
びっしりと書き込まれている。当時清正公信仰は全国的に広まっており、
その盛況っぷりをうかがい知ることが出来る。

26.細川忠利寄附状
1632年、肥後に入国した忠利は加藤家に対し礼を尽くし
熊本城天守閣より清正の眠る本妙寺を遥拝したと伝わる。
本状は1633年本妙寺に対して細川家より300石を寄附することを明示したもので、
これとは別に隠居料として100石が寄附されている。
これ以降、幕末まで歴代の細川家当主は本妙寺に対して400石の保護を続けた。

27.本妙寺領山絵図
1632年、忠利が肥後入国した直後の本妙寺境内山林の様子を描いた絵図。
裏面に忠利自筆の本妙寺領についての覚書がある。

28.山号額字
本妙寺の山号「発星山」を大書したもので、文禄慶長の役の際に
捕虜として佐賀に連行され鍋島家に仕えた書家・学者である
洪浩然の筆であることが近年判明した。
本妙寺僧の日遥とも交流があり、朝鮮人捕虜同士の
日本での交流の証として資料的価値が高い。

29.大太刀
全長417㎝、38.77㎏の大太刀。
刀身に「奉納 清正公大神祗 国家安全」と太字で彫られている。
1834年、肥後の刀工 延寿国幸が勢作し、
清正公命日の6/24に本妙寺に奉納された。





これ以外に、先の記事にも書いたけれど、デジタルミュージアムで超高画質で
網代鞘、ゆめのこと、蛇の目紋胴具足&蛇の目紋長烏帽子兜をじっくり見られて大満足です。

本妙寺の宝物館は土日しか開いていないのに加え、
確実に何が展示されているかは事前に分からないですし、
電話で聞いたらいいのかもしれないけど、それを狙って行こうと思っても
日程に都合がつくかと言うと別問題だから、今回来られて本当に良かった。

本当のところ「ゆめのこと」、この一枚を見に来たと言っても良い。
このエピソード好き過ぎて、本物を一度この目で拝んでみたかったのです。


熊本の人が清正公さんを語る時、本当に清正公が慕われているのを感じるし
熊本の人にとって清正公が自分達の誇りでそして親しみのある存在なのだと
感じられるところが好きだよ 熊本の民ででなくても私も清正公好きだよ。

また会いに行かせて下さい。
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