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ただの個人の掃き溜めです。
DATE: 2017/04/30(日)   CATEGORY: その他イベント
三池先生の天秀尼本発売記念講演会に行きました。
東慶寺で開催された、三池純正先生の天秀尼本発売記念講演会に行きました。
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定員100名の事前申込制で、多分満員だったと思う。
静かで穏やかな雰囲気の中、興味深いお話をたくさん聞けて
講演会の後はサイン会まであって、素敵なひと時を過ごさせて頂きました。


<講演要旨>
1 関ヶ原合戦~豊臣VS徳川の戦い~
2 家康の将軍就任
3 秀頼の嫡子誕生
4 大坂の陣
5 天秀尼誕生
6 会津加藤家改易事件
7 天秀尼死す


1…関ヶ原の戦いは、秀頼様親衛隊2000が出陣している、
ヤスを亡きものにしようとしたと三池先生。
いやでも豊臣はヤスに資金援助してますよね?
さらっと進んだけどここを個別に質問させて頂いたのは先の通り。

3…子の母は伊勢の成田氏。淀殿の傍で世話をしていた人。
徳川実記では結構豊臣家の傍に成田氏の名前が出て来る。
一方、加賀前田家の史料では国松様の母は伊勢渡辺氏。

国松様は京極家→京極家はとき弥左衛門(刀研ぎ)に預けられる。
天秀尼は秀吉様の叔父、小出家へ。
泉州岸和田の小出家→三宅善兵衛に預けられた。

4…大坂の陣。天秀尼は常光院初の行列に紛れて大坂城から逃げた説。
これは永井路子説。天秀尼を見つけたのは京極家。
千姫は大坂を脱出して二条城から伏見城へ。天秀尼に会ったのは伏見城。
東慶寺は当時鎌倉で三番目に裕福な格式の高い寺。

5…天秀尼は秀頼公息女、将軍家息女(千姫養女)として寺に入る。
三宅善兵衛の妻が乳母として同伴する。天秀尼は当時7歳。
東慶寺での天秀尼の史料は殆どない。
花見の時に読んだ二種の和歌は、とても綺麗な字。
散る桜が美しい、と「動」の桜を詠む。風に舞う桜に自らの心を写したのでは。
子を失い仏門に入った千姫に贈った二輪の花。(その返礼状が現在展示中。)
千姫に天秀尼の真心が届いたのだと思う。

6…会津加藤家改易事件はがっつり時間をかけて解説して下すった。
この事件によって、加藤家は改易され、東慶寺の寺法が確固たる地位を
幕府に保障されることになった。
この事件を通して、天秀尼は同じような(逃げ場のない)立場の人間を救うために
自分は生まれたと悟ったのではないか。




質疑応答。


<質問1>
天秀尼の乳母は甲斐姫か。

<回答1>
その証拠は全くない。が、ない可能性が0でもない。
甲斐姫が実在の人物かどうかすら確証はない。
が、「かい」と言う女性が醍醐の花見の時に秀吉様の傍にいて和歌が残っている。
醍醐の花見の後の消息は不明。
その「かい」が成田氏の娘で、三宅善兵衛のところに嫁いだ可能性はある。

<質問2>
会津加藤家改易事件は、徳川が加藤家を潰したいための策略だったか、
天秀尼が寺法を守るために毅然として戦ったのか、どちらの面が強いと思うか。

<回答2>
両方が利用し合った。徳川は豊臣系大名を潰したかったし、
天秀尼は今後の寺の在り方を将軍家に認めさせたかった。
この考え方は、三池先生が書いた天秀尼の小説(未発表)でも描いていると。

<質問3>
天秀尼のお墓のかたちについて。

<回答3>
尼さんのお墓。隣の乳母のお墓は俗人(出家していない)のお墓。
二人のお墓が並んで立っているのは、天秀尼の遺言だったのか、
或は生前の二人を知る人々が、いつまでも二人が傍にいられるように
した様にも見える。乳母は天秀尼が亡くなった7か月後に亡くなった。



ざっとこんな感じです。
殆ど史料の残っていない方なのに、水増し感もなくあっという間の二時間でした。
最後に個人的に質問したことも丁寧にお答え下すって感激。
またの機会があれば是非お伺いに行きたいものです。
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