BAD END
ただの個人の掃き溜めです。
真田本なら十勇士より浪人衆が欲しい。
真田関連の小説を何冊か読んだのですが、秀頼様と浪人衆目当てで
読んでいるので十勇士や草の者メインだとあまり興味がわかないなあと
昨今特に感じる様になって来たところ。
最初からどうだったんだけれども、ある程度数をこなすと
その辺が従来よりも顕著に目に障ると言うか。


①「 真田幸村〈新装版〉 真田十勇士 (文春文庫) 」
歴史小説ではなく、奇妙な真田同人誌って感じ。(自分には合わなかった)


②「真田四代と信繁」
前回殆ど感想書いていなかったので、信繁の章だけ感想書いておく。

③「秀吉研究の最前線」
これも前回殆ど感想がなかったので、少しだけ追記。


④「大阪城ふしぎ発見ウォーク」
大阪城天守閣館長 北川先生の、大阪城に対する愛情を感じた。
この本を読みながら大阪城を散歩したら、きっと誰しももっとあのお城が好きになる。


⑤「真紅の人」
これは読もうと思ったら正に佐助とかメインだったので諦めたやつです;;

以下、読書関連メインのツイログ。


<1/21>
1917生まれ、すでに故人の作家さんの短編集。又兵衛や重成の章があったので手に取るも、十勇士が出るだけでパラレル臭するし、エロスがやたら多いしであまり好みではなかったかなあ。


1/21 1:41[ Twitter for iPhone ]

真田大助の章では幸村の初夜を女忍者が奪っていて、その女忍者:眉花が大助の母になる訳だけど、全然夏の陣の話でなかった。又兵衛の章は長政との執拗な追いかけっこで、終盤に大坂入りする、と言うところで話は終わり。
1/21 1:47[ Twitter for iPhone ]

重成の章は、二条城会見の翌日、重成が異様な剣技をする武芸者と戦い、砂中に仕込んで隠した毒の刃でもって勝利する話。何を言っているのか分からないと思うがマジ。秀頼様が伏見の清正屋敷に宿泊するのと、秀頼様が重成に無刀の業の心得があるかと聞き、ないと答えられ唖然とするのが可愛いくらいか。
1/21 1:51[ Twitter for iPhone ]

そもそも幸村が秀頼様に、重成が無刀の業を会得したとヤスに語るように入れ知恵していた。それは徳川の兵法者夢想只四郎を討ち果たす為に試合に引きずり出す為の策だった。で、フツーには勝てないから仕込んだ刃で勝つようにしたと。もうさ、キャラの名前だけ使った完全同人だわな。
1/21 1:55[ Twitter for iPhone ]

ここまで読んでこの本の方向性が見えたので残りはざっくり。真田十勇士の章は晴海メイン。風魔鬼太郎の章は氏郷息子が幼い頃に母と秀吉様の閨の様子を見たことをトラウマとして持ち続け、その復讐に鬼太郎に、淀殿を秀頼様の前で犯すと宣言させて実行する話。何が何だか頭おかしくなってきた。
1/21 1:58[ Twitter for iPhone ]

山田長政の章は秀頼様を新天地にお連れすべきと画策するが、結局うまく行かなかったと言う話。これも突拍子もないしどさくさに紛れて秀頼様と淀殿が親子丼だしでこの作者の性癖こえーよってなった。
1/21 2:01[ Twitter for iPhone ]

ヤスの章はヤスに七人の影武者がいて、誰が本物やら云々という話。最後の大坂夏の陣の章はあらすじは夏の陣だけど、十勇士いるのでまあパラレルですな。秀頼様首取られてんじゃねーか!もう本当意味分からない…今回それしか感想がない。
1/21 2:07[ Twitter for iPhone ]


「真田四代と信繁」は信繁だけ感想あげ。源次郎の名付け、元服年齢、弁丸手紙、吉継、豊臣期の信繁、秀次事件、大坂入城(どの記録にどのエピがあるか列挙してあるの好印象)、真田丸、寝返り、講話、夏の陣(将棋の駒の感状は興味深い)、討死、妻子のその後。

1/21 2:17[ Twitter for iPhone ]

治房が秀頼様の馬印を持って出陣していた(イエズス会日本年報)のに軍勢を率いて帰陣した、プラス大坂の陣城が炎上していたのが豊臣が敗北したと兵士の目に映った、と書いてあるやつ、これ治長verでも見たことあるな 治長は先日の襲撃事件で襲われた時の怪我が開いて血まみれだったってverで。
1/21 2:20[ Twitter for iPhone ]

意外にも大坂優勢だったことは薩摩旧記雑録後編も同様で「大坂衆の手柄についてはなかなかに説明する必要もない(優れた)ものがあった。今後の(欠損、秀頼が、だろうか)お勝ちになるところ、大御所様がご運の強い為にお勝ちになられたのである」と国許に報告している。
1/21 2:22[ Twitter for iPhone ]

私はこの説を読む度においたわしさで胸が締め付けられて息苦しくなるんだ。
1/21 2:22[ Twitter for iPhone ]

幸綱、信綱、昌幸、信繁、信之と同じ様にどれも詳しく書いてあるから興味ある人は読んでくれ。私はもう大坂の陣でいっぱいいっぱいだよ…。
1/21 2:24[ Twitter for iPhone ]


前回の追記。秀吉様を様々な切り口で書いたコラム集みたいなものだとは前回書いた通り。五大老五奉行、太閤検地、刀狩、惣無事令、大仏、キリスト教禁止茶の湯、出生などがテーマ。

1/21 2:27[ Twitter for iPhone ]

五大老を奉行と呼んでいたのは三成始め官僚派のみで、五奉行を年寄と呼んでいたのも彼らのみ。ヤス達東軍派はどちらの呼称も用いず五奉行のことは奉行と呼んでいた。奉行とは上位者(秀頼様)の命令を奉り行う者。三成はヤスを奉行と呼び、ヤスは三成を宿老としての地位と認めなかった。
1/21 2:31[ Twitter for iPhone ]

呼称を巡る史料の存在は、呼び方だけでなく、当初から三成とヤスが各々の政治的立場により使い分けられていたことを示しているとのこと。
1/21 2:32[ Twitter for iPhone ]

他のもそこそこ面白かったけど、どれも完全に秀吉様が政策を生かしきれていたとは考えられない、まだまだ考察の余地がある、と言うのが殆どだった。最後に、秀吉様はヤスを警戒していたか、答えはNOみたいな章あったけど警戒してたら秀頼様のこと託さないでしょう 本当メタ視点なタイトルだなと。
1/21 2:37[ Twitter for iPhone ]

これは大阪城天守閣館長の北川先生の御本なので読んだ。知ってるエピがほとんどだったけれど流石は北川先生、細かいところまで知り尽くしていらっしゃるので読み物としてお勧め。

1/21 2:38[ Twitter for iPhone ]

大手門西の丸、二の丸玉造口、本丸天守閣、山里丸青屋口、の4つのゾーンについての解説。歴史に解説にコラムに写真に、大阪城の魅力がたくさん味わえる。これを読みながら大阪城を散歩したくなる。
1/21 2:42[ Twitter for iPhone ]

秀頼様胞衣の松は目で見られるものは何も残されていません、本文を読んでイメージを膨らませて下さいね、って書いてあった。修道館の近くにあったんだなあ。
1/21 2:43[ Twitter for iPhone ]

玉造口の城中焼亡埋骨墳は幕末大坂落城の時の幕臣達のものなのに、由来を知らない人が豊臣家ゆかりの人達のものだと思い、その結果この石碑の隣に淀殿の菩提を弔う碑が出来たってのシュールだな。
1/21 2:48[ Twitter for iPhone ]

秀頼様淀殿ら自刃の碑は、自害の場所は諸説あるし生存説もあるのに、そこに石碑を立てるとそこで自害したのが事実であると一般の人に受け止められてしまうから北川先生は反対されていたそう。でもやはりその様なモニュメントを欲しがる人が多いと。ですよね…私も毎回行くし…。
1/21 2:52[ Twitter for iPhone ]

結局いくつかの史料に出て来る朱三櫓のあった場所と近い位置に建てられたけれども、江戸時代は糒櫓説が有力だった様子。また、豊臣時代に山里曲輪にあった糒櫓と、江戸時代には本丸の東北隅に建てられていた糒櫓が混同されて、本丸東北隅の糒櫓の近くに秀頼公生害松と呼ばれる松があったとのこと。
1/21 2:55[ Twitter for iPhone ]

※補足。秀頼様の自刃地としてはこれ程までに色々分かれているとのこと。
「今日は何の日?徒然日記」より引用。
大坂落城五月八日朝、秀頼卿御存生ニ而、山里丸糒蔵(ほしいくら)ニ御座候・・・(藤堂家譜)
大坂本丸自焼、乍去秀頼、同御袋、翌日八日迄、天守下之丸之蔵ニ被生残候・・・(慶長二十年5月11日付け伊達政宗・書状)
秀頼公ハ、母子トモニ、玉造ノ櫓ニ御入候(武功雑記)
八日の朝、山里南東の方の御腰物蔵の矢倉焼きのこるにより、秀頼公御入・・・(老将座談)
蘆田曲輪(あしだくるわ)ノ方ヘ、皆々御供シ立退キテ入ラセケル・・・(明良洪範)
二之丸帯車輪(おびくるわ)ニ引籠ル由云々・・・(駿府記・慶長二十年5ガツ八日条)
大坂城中之焼殘之唐物倉(からものぐら)ニ秀頼并御袋、大野修理・・・(本光国師日記・慶長二十年五月八日条)
五月八日、大坂落居、御屋形千畳敷ニテ、秀頼様并御母儀其外女房衆諸侍以下・・・(春日社司祐範記・慶長二十年五月八日条)

最後に大坂城の怪談として漫画も載ってた。これ大阪城天守閣にもパネルあるやつだよね。この本は2011年12月に刊行されて、あとがきではエッゲンベルグ城の豊臣期大坂図屏風についても触れられていた。本当ここ行きたいわあ。
1/21 2:58[ Twitter for iPhone ]

真紅の人、読もうかと思ったけどパラ読みで秀頼様や五人衆の名前が殆ど出てなくて、佐助とか久蔵とかの名前ばかりだとうーんこれはもう良いかなーと思ってしまう。十勇士モノは本当興味薄くなったなあ。

1/21 3:02[ Twitter for iPhone ]

これも幸村でなく信繁名義なんだけど2015年2月だからやっぱ大河発表後は信繁押しでみんな書く流れなのかな。
1/21 3:03[ Twitter for iPhone ]

http://www.matsuzakaya.co.jp/corporate/history/edo/02.shtml 松坂屋ゆかりの人で、大坂の陣で豊臣方後藤隊だった人がいると聞きウッグスってなった。
1/21 8:28[ Twitter for iPhone ]

京博も方広寺も先週行ったばかりだし感慨深いわ。 方広寺の南回廊跡見つかる 溝から大量の瓦 http://www.sankei.com/photo/story/news/160121/sty1601210008-n1.html
1/21 19:51[ Mobile Web ]

指月伏見城もその後の発掘どうなってるのか定期的に教えて頂きたいんだけどどうなってるのです 豊臣石垣みたく埋め戻したのかしら。
1/21 19:54[ Twitter for iPhone ]

先日お友達と話していて私最近勝永寄りと思われてたぽいけど、私の軸であり芯であり幹となる部分は秀頼様ただお一人で秀頼様あっての勝永なので今後も倦まず弛まず秀頼様の為にお仕え致したい所存でございます。
1/21 21:14[ Twitter for iPhone ]

秀頼様を何と讃えれば良いものか。全く自然に行われる秀頼様の所作の一つ一つが、秀頼様が尊く気高い存在であることを無言で語る。たおやかな身のこなし、凛とした立ち振る舞い、玉を転がす様なお声、しとやかな物言い、匂い立つ様な美しさ。秀頼様にお仕え出来ること、私共豊臣兵冥利に尽きます。
1/21 21:36[ Twitter for iPhone ]

秀頼様を主に頂けることでさえ私共からしたら身に余る光栄でございますのに、そんな秀頼様が我々家臣のことを慈しんで下さるとか畏れ多くて袖を絞るしかないのです。然れども、秀頼様は誠に慈悲深いお方であります故、あの様な選択を取られたのでございます…おいたわしや秀頼様。
1/21 21:40[ Twitter for iPhone ]


<1/22>
秀頼様のお名前を見るだけで私は胸が熱くなるんだ。豊臣家の威信をかけた大仏殿だったのに日本列島ェ…。 方広寺回廊 秀頼、豪華に : 読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/local/kyoto/news/20160121-OYTNT50357.html?from=tw
1/22 8:27[ Twitter for iPhone ]

RT @hidekiyo_mikawa 6h
こちらのアカウントにアップ。これが本多忠朝公が大坂夏の陣で討死した際に着用していた「血染めの肌着」。昨年お邪魔した際に記念館の方に警備のため一緒に泊まっていかないと誘われましたが、あまりに恐れ多く辞退しました^^;
[RT(120)]
1/22 18:04[ Twitter Web Client ]

勝永ぁぁぁぁーーーー!!
1/22 20:29[ Twitter for iPhone ]

クソ偏った知識しかないので私の中であの辺りに布陣してた武将みんな勝永隊と戦った人達って分類になってる。
1/22 20:33[ Twitter for iPhone ]

こう言うのも一般公開してくれると嬉しいけど痛み激しいから難しいかな。 秀吉の朱印状33通 重臣に指示・叱責、東大史料編纂所が修復:日本経済新聞 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG21H9G_R20C16A1000000/
1/22 20:55[ Twitter for iPhone ]



日がな積極的に豊臣のニュースは仕入れて行きたいと思っているのですが、
秀吉様の33通の書状と秀頼様再建の方広寺遺構のニュースが同日に
大々的に報道されたのはびっくりだった。
豊臣の遺構や史跡、軌跡は何でも教えて欲しいし見つかって欲しい。

まだまだ、私達の知らない秀吉様や秀頼様や豊臣の残したものが
この地上にも地下にも眠っているのだと思うとわくわくしますね。
私たちは、浪速の夢のまた夢の続きを見られるのかもしれない。
幸せなことです。
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